私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 第二次世界大戦前の唐津における男子の中等学校としては、唐津中学校と唐津商業の2校、お互い切磋琢磨しながら、生徒たちは成長した。その唐津商業もあと数年で100年を迎えるという。その唐津商業高校の校歌の作詞者に「柿村重松」という漢学の偉大な先駆者がおられる。
 
柿村重松
 
(一)本朝文粋注釈 著者 柿村重松(唐津出身)
                 ・・・学士院賞受賞 大正12年
 「本朝文粋(モンズイ)」といっても、ほとんどの方がご存知ないであろうが、平安時代の詩文の英粋を編集した古典である。
 この古典に緻密な註釈をされたのが、漢学者 柿村重松である。先生は唐津出身、それも宮島醤油本社工場の近く。唐津商業学校の校歌の作詞者、また、私の母校である(旧制)福岡高等学校の初代の漢文の教授であり、その在職中に「本朝文粋註釈」の完成により、大正12年に帝国学士院恩賜賞を授与されていること等々から私の関心が高まっていった。
 ところが、この数年のうちに、柿村先生の孫の河村剛君(私の1年後輩)、さらに柿村先生の親族にあたる梅田英二先輩が相次いで他界されていく。河村君を弔問したとき、先生の遺稿集「松南雑草」を拝見する機会に接し、「本朝文粋」とは、どんな内容だろうか、にわかに勉強をはじめた。
(二)本朝文粋とは
 「本朝文粋」は、わが国の詩文の精粋を集めたもので、本朝とは、日本の朝廷のこと。
 「本朝文粋」は14巻、平安時代、藤原明衡の選。嵯峨天皇から、御一条天皇に至る(9世紀前半~11世紀前半)約200年間、約70名の作者の韻文、散文と教文が集められており、後世の人たちの文章作成の見本の目的がある。
 したがって、現代風にいえば、“美辞麗句”というところだが、当時の風潮としては、駢儷文で、対句を中心として、修辞に重点があり、4字と6字が好んで用いられている。
(三)本朝文粋から
 全巻427篇の詩文の中で、華実兼備の傑作といわれているもの2篇を読んでみる。難しい漢字、漢文ですが、目を通され、最後の(現代文訳文)で、その大意を味わって下されば幸いです。
 
(1)池亭記          前中書王(兼明親王)
 
(新日本古典文学大系「本朝文粋」岩波書店より)
 高貴に処る者は登臨の暇なし。明利に趨る者は遊泛の情なし。幽閑嬾放の者は、浮栄を虚無にし、風景を富有することを得。余、少なくし書籍を携へて、ほぼ兼済独善の義を見たり。如今老に垂として病根漸く深く、世情弥浅し。七の不堪、二の不可、併ら一身に在り。この亭を草創せしより、尤も心事に合へり。亭は曲池の北、小山の西に在り。山に傍ひ流れに臨み、茅を結び宇を開けり。
 
(柿村重松「本朝文粋注釈」より)
 高貴に處るものは登臨の暇なく、明利を逐ふものは浮遊の情なし。唯幽閑懶放の者のみ栄華をなみして、風景に飽くことを得るなり。余少(わか)くして書を学び、略々兼済獨善(身達すれば兼ねて天下をすくひ、命窮すれば獨り其の身を善くするをいふ)の義を知りぬ。今や身老になんなんとして、病根漸く深く、世情益々浅し。嵆康の所謂七不堪二不可、並に一身あり。此の亭を造りしより、尤も我が心にかなふを得き。亭は曲池の北、小川の西にあり。山にそひ流に臨み、茅を結びて屋となし・・・。
「本朝文粋注釈」
国立国会図書館
ウェブサイトより
 
(現代文訳文)
 位の高い人は、山に登ったり、水に臨んだりする暇がない。明利に走る人は、舟遊びする気持ちにならない。静かに世を避けて暮らす自由人は虚栄を虚無にし自然を存分に自分そのものにすることができる。我は若い時から書籍を携えて、苦しい境遇にあるときは自分の身を正しく修め、地位を得たときはすべての人を救うことに努める。今、老境に入ろうとし、病は深くなる。世間の人々の心はますます薄く、七の我慢できないこと、二の非常に悪い癖がある。しかしながら、一身にあり、この亭を開いてからは、もっとも、自分の心に適している。亭は北に曲池、西に山あり、流れに沿って臨み、茅を結び、家をつくる。
 
 以上は兼明親王が朝廷の中で閑職に遷され、自適の生活を選んだことを描いた一篇で、後の鴨長明の方丈記に影響したといわれている。
 
 
(2)見遊女(遊女を見る)     江 以言
 
(新日本古典文学大系「本朝文粋」岩波書店より)
 二年三月、予州源太守兼員外左典廐、春南海に行きて、路に河陽に次る。河陽は山河摂三州の間に介りて、天下の要津なり。西より東より、南より北より、往反の者、この路に率ひ由ゐずということ莫し。
 その俗、天下女色を衒ひ売る者、老少提結し、邑里相望む。舟を門前に維いで、客を河中に遅つ。少き者は脂粉歌笑、以て人の心を蕩かし、老いたる者は簦を担ひ棹を擁して、以て己が任と為す。夫聟有る者は、責むるにその淫奔の行少なきことを以てし、父母有る者は、只願わくはその徴嬖の幸多からんことを以てす。人の情に非ずと雖も、是俗事なるを以てなり。蓋し遊行を以てその名と為す、所謂信を以て之を名づくるなり。
 ・・・・・・(中略)何ぞそれ色を好む心を以て、賢を好む途に近づかざるやと爾云う。
 
(柿村重松「本朝文粋注釈」より)
 二年春三月源伊予守兼左馬権頭南海に赴くの途次、河陽にやどられぬ。河陽は山城河内摂津三國の間にはさまりて、天下の要津なり。四方より来往するもの、皆この路に由らざるはなし。
 その俗、天下に女色をてらひ賣るもの、老少相結び、邑里相連り、舟を門の前につなぎ、客を川の中にまてり、少きものは美粧歌笑して人の心をとろかし、老いたるものは傘を着け舟をこぎて己が務とせり。夫聟あるものは、その淫奔の行すくなきを責め、父母あるものは、その徴愛の幸多からんことを願へり。是れ人情にはあらざれども、自ら俗となりて然るなり。蓋し名づけて遊女という、所謂実際を以て名づけしものなり。
 ・・・・・・(中略)彼等は何故にその色を好むの心をうつして、賢者を好むの道に近づかざるやという。何ぞ賢を好むの道に近づかざると云へるは、暗に人の上たるものの学者をも諷せるなり。
「本朝文粋注釈」
国立国会図書館
ウェブサイトより
 
(現代文訳文)
 長徳2年(996)、源兼資が春、南海に行き、途中河陽(山崎津)に泊まる。河陽は山城、河内、摂津の間にあり、天下の要港であり、西より、東より、南より、北より往復し、この路を通らないものはない。
 この港の(風)俗は、女性の魅力をほめて売る者、老いたもの若いもの在り、色里を眺めている。舟を門前につなぎ、客を河の中で待っている。若い者は口紅、白粉で化粧し、歌い笑って、人の心をとろかし迷わせる。年をとったものは、長い柄のある傘をかつぎ、舟を漕ぐ役目を果たす。夫聟のある人は、なるだけ淫なことを少なくし、父母ある人は、なるべく客が多いことを願っている。人情に反するものではないが、これも俗世の事態によって、そのようになっている。
 (中略)色を好む心をもって、賢を好む途に近づこうと言い聞かせる。
 
 以上、2篇を選び出して読んでみる。
 兼明親王の理想とする閑適生活「池亭記」と遊女の生態を描いた「遊女を見る」、取り上げた詩、散文は非常に多岐にわたり、文体もさまざま。中国の古典からの故事成語等々まで整理するのは莫大な知識と能力を必要としたことだろう。
 このコラムを書くにあたり、河村剛氏のお宅にうかがい、柿村先生の著書「本朝文粋註釈」を拝見させてもらった。
 本著は大正11年4月10日発行。上下2巻2,400頁にわたる。ズッシリと重い。
 柿村先生は中国文学が日本文学にいかなる影響を与えてきたかを念頭に学究の途を歩まれ、その集大成として「本朝文粋」の註釈を思い立ち、大阪陸軍幼年学校、熊本中学その他の校務のかたわら、独学にて資料収集、研究され、この大著を完成されている。そして、現在もなお「田中校本を底本として、その他の諸本及び関係諸本を参考にして本文を定め、正確な出典考証に基づいて詳細な註を施した空前絶後の注釈書として名高い」と評価されている。(新日本古典文学大系27 本朝文粋解説)
 
 先生の遺作を眼のあたりにして、その不撓不屈の精神力とその実績に敬意を表しつつ、今回は筆を擱きますが、次の機会には、先生のこの大きなご功績の裏には病魔と闘いつつ、完成直前に愛妻を失われた生涯を偲びたいと思っている。
 校歌を作詞された唐津商業高校もあと数年で百周年を迎えるとのこと、その日には唐津が生んだ碩学の士、柿村重松先生を偲んで頂ければと念願している。
参考文献
「本朝文粋註釈(上・下)」 柿村重松 著
「本朝文粋 新日本古典文学大系」 岩波書店
「松南雑草」 柿村重松 著
「末盧国」 松浦史談会