私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 福田首相は、組閣後直ちに、新内閣を、「背水の陣」内閣と称し、自らの決意を披瀝(ひれき)し、閣僚の奮起を促した。
 さて、「背水の陣」の故事来歴は・・・・・・
“背水の陣”に学ぶ
 “背水の陣”の物語は、中国は秦の末期、漢の初期(紀元前200年前後)に活躍した「韓信」が主人公である。
(一)韓信の胯くぐり
 韓信は中国淮陰(わいいん)に生まれる。
 少年時代は貧しく、恵まれず、悪童たちに辱められる。あるとき、公衆の面前で、「おれの胯をくぐれ」と命ぜられ、しばらく考えた後、おもむろに胯の下をくぐると、盛り場の大勢の人たちは、手を叩いてあざ笑った。現代風に云えば、“いじめられっ子”だったのだろうか。
 この胯くぐりの逸話は忍耐物語として、または、(つまらんことには)負けるが勝ちとの人生訓のひとつとして、戦前の小学校の教科書にもとりあげられ、有名である。
 韓信はこんな屈辱に耐えながら、漢の大将軍にまで出世する。
(二)韓信は国士無双なり
 韓信は長じるや、一振りの剣を手にして、楚の項羽の護衛官となる。しかし、彼の諸策は採用されず、漢の劉邦のもとに転ずる。漢においても芽が出なかったが宰相の蕭何(しょうか)は、彼を傑物と認め、劉邦に対し「韓信は『国士無双』なり、もし漢が天下を争わんとすれば、最も頼りになる」と推薦する。
 その後韓信は、各地の戦に連戦連勝、八面六臂の大活躍。漢の大将軍の地位にまで登りつめる。
 「国士無双」とは、国に二人といない傑出した人物の意、麻雀を嗜まれる方々には、おなじみのヤクマンである。
(三)背水の陣
 漢の劉邦は、韓信の意見を容れ、天下を統一するため、漢中へと東進する。
 しかし、その前面には、協力に抵抗する趙が立ちはだかる。漢と趙は、ついに井陘(せいけい)で雌雄を決することになった。
 
 趙はその兵力20万、井陘の登山口に集結する。
 一方、迎え撃つ漢の韓信の兵力は、4~5万。井陘へ約30里(30km)の地に布陣する。
 この兵力差に悩んでいた韓信のもとに、
 「趙軍は、漢軍の後方を脅かすといった奇襲戦法はとらない」
 との情報が入る。直ちに、韓信は次のような策戦を樹てる。
 まず、2,000人の軽騎兵を選び、各人に漢軍の赤い旗をもたせ、敵陣の山かげに隠れ、趙軍の動静を見下ろせる処に潜ませる。
 そして、極秘裡に命令する。
 「趙軍とわが軍は、矛(ほこ)を交える。しばし、戦った後、わが軍は退却する。これをみて、必ずや敵は本陣を空ッポにして追撃してくるだろう。そのとき、奇襲隊は、趙の旗を取り除き、漢の赤い旗と立て替え、背後から挟撃しよう」と。
 一方、韓信は1万人の先遣隊をして「川を背にして陣」を張らしめた。
 
 翌朝、未明、戦闘開始。
 韓信は、少数の部下を従え、旗を揚げ太鼓を打ち鳴らし、敵陣に打って出る。
 趙軍は、ここぞとばかり砦の門をを開いて攻撃してくる。
 入り乱れて戦うことしばし。韓信らは、敵をあざむきて、旗も太鼓も捨てて、川岸の部隊へと退く。
 果せるかな、趙軍は追撃してくる。
 韓信らが川岸の部隊と合流するや否や、再び激しい戦闘がくり広げられる。
 漢軍は、川を背にしているだけに、死に物狂いでたたかう。趙軍はどうしても漢軍を破ることはできない。趙軍が一人残らず、砦を出ていくのを認めた漢の奇襲部隊2,000名は後方から雪崩の如く趙軍に襲いかかった。
 かくして、漢・趙の「井陘の戦」は、韓信が率いる漢の大勝利となった。
(四)戦、終わって、何故 背水の陣か
 韓信は、生け捕りにした敵の大将等を交えての祝賀会をはじめた。
 一同、祝賀の詞を述べた後、部下の一人が韓信にこう尋ねた。
 「(孫子の)兵法には、布陣するときは、山・丘は、右と後ろに、川・沼は前と左にせよ、という。今回は何故に、川を背に布陣されたのですか」
 韓信はこう答える。
 「兵法の別のところでは、『軍は絶体絶命の窮地に陥ってこそ生きのび、滅亡不可避の状態に追い込んでこそ滅亡を免れる』と。
 それに私は、君ら将兵を労わり訓練していない。・・・だから、将兵を絶体絶命の窮地に追い込んで志気を高めようとしたのだ」と。
(五)背水の陣、今 学ぶもの
 以上の「背水の陣」物語は、今を去る2,000年前の司馬遷の不朽の名著「史記」、淮陰侯(韓信のこと)の列伝からとりまとめた。読み進むうちに、いわゆる「背水の陣」には、志気を鼓舞するという意味の外にも掬(きく)すべき教訓が多々あるようだ。
 
 そのひとつ、まず、敵の動向、策戦を知る情報を蒐集し、策戦を樹てていること。
 ついで河・川を背にするのは兵法では最も不利な布陣というが、これもTPOによっては、あえて「背水の陣」を選ぶこともありうるということ。
 また、戦には、志気を鼓舞するのみならず、一方では、全体の戦局を見通して、背後から攻める。挟撃し勝利をうるという大局的見地からの戦略等々。
 このことによって、必死に戦った背水の陣の意義は、さらに効果が挙がる。
 
 福田内閣も、単なる志気高揚のための「背水の陣」のみならず、日本の現在と将来を見据えた遠大な政策をたて、邁進されんことを冀う(こいねがう)。
 と期待していたところ、日本の防衛を担い、最も規律を尊ばねばならない自衛隊の幹部が鉄砲ならぬゴルフの球を数百回も打ちつづけていたという。“背水の陣”で必死で戦う以前の“なさねばならぬ”ことが欠けている。嗚呼!
参考文献
中国古典13 史記三 学習研究社 藤堂明保 監修 福島中郎 訳
中国文明の歴史3 中公文庫 日比野丈夫 編集