私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 西暦2011年、平成23年に入りました。
 おかげさまで、宮島醤油は醤油醸造業を創めて、129年を迎えることができました。新しい年にあたり、あらためて曾祖父宮島傳兵衞(以下、傳兵衞という)が、醤油醸造業を創めてからの原点を見つめてみました。
 
明治・大正時代の醤油業界と宮島醤油(一)
(一)七世宮島傳兵衞醤油醸造業をはじめる。
 宮島醤油の創業者、七世宮島傳兵衞は、幼にして宮島家を継ぎ、富田屋と称する、飲食店兼魚類商を経営することになる。進取の気性に富む宮島傳兵衞は、20歳になり、唐津炭田に産出する石炭の売買と海運業に乗り出す。苦労の末、幸いに関西への出荷に成功、その後、明治10年に大型和船、大麻丸を購入し、関東への石炭販売を開始した。たまたま、西南戦争が勃発、石炭の価格が高騰し、莫大な利益をもたらしたものの、遠州灘にて、暴風雨に遭遇し、漂流、帆柱、舵を失い、大きな損害を被る。
 この災難に遭い、さすがに傳兵衞も三日三晩寝込んだという。
 その後の傳兵衞は遠距離の水運業、石炭採掘等のハイリスクハイリターンよりも、堅実な商売を・・・と考え、明治15年に醤油醸造業を思い立つ。その動機を「自叙伝」には次のように記録する。
 「醤油は日用品にして永遠宮島家の商売将来見込み付て此業起す」と。
 この設立の理念は、一世紀をこえた今日まで、なお脈々と息づいている。
 傳兵衞は、家業であった富田屋をこえ、数々の新しい仕事を手がけている。
 捕鯨、石炭の採掘・運送・売買、唐津紙の販売、度量衡器の販売、等々。こう並べてみると、いずれも徳川幕府から明治政府に移るに際して藩の援助が打ち切られ、一般の人が自由に参入できた分野である。
 そのひとつに醤油業があった。
 幕末から明治にかけての醤油業界はどうだったのだろうか。
(二)幕末から明治維新の醤油業界
 室町時代頃に、今日のわれわれが使っている醤油ができあがり、「醤油」という言葉も使われだした。徳川時代に入り、一部の特権階級のみで使われていた醤油が一般市民へと普及し、製造、販売の業が成り立つようになる。
 徳川時代の安永元年(1772年)、徳川家治は各藩に「酒醤油酢造の営業をなすものは、少分といえども冥加金を上納すべき理あり」と通達する。保護を受ける一方、これにより醤油業者は、冥加金(税金)を納めることになる。
 とくに、関西の銘醸地、湯浅(和歌山県)、龍野(兵庫県)等の蔵元はそれぞれ藩に冥加金を上納し、幕府、藩の破格の保護を受けながら業務を拡げ、とくに徳川初期になって、一大消費地に成長した江戸に送られ、発展していく。
 一方、関東においても、江戸川の水運が整備されていくと野田、銚子などが新しい生産地として登場する。
 ところが明治維新、廃藩置県により、従来の幕府藩の保護が突如打ち切られる。その影響を受け、とまどったのは、これら銘醸地の蔵元だったようで、これら蔵元は一挙に自由競争の渦中に投げ出されることになる。
 明治政府の醤油業への対応として、明治元年関東地方だけだが、依然冥加金を課せられた。ついで、明治2年には民部省から、醤油造鑑札渡方並びに冥加金上納を布告、続く明治4年、大政官布達で株鑑札を廃止し、免許鑑札とし、免許料、免許税、醸造税が賦課されている。
 しかし、明治8年になって醤油は生活必需品だからとの理由で課税は廃止された。
 しかし、明治18年には、軍備増強のため、新しい財源を求め、一度廃止した醤油に再び税金が課せられた。
 したがって、明治8年から18年までの10年間は醤油は全く行政の規制を受けず、自由に生産し販売できる空白期間が存在している。
 
 傳兵衞がこの時期に醤油醸造をはじめるにあたって、このような期間であったことを認識していたかどうか知るすべはないが、醤油を開業する絶好の時期ではあったことだけは確かである。関東、関西のような先進地区では、大規模な工場であり、生産高であったろうが、九州、肥前、唐津というローカルな町で唐津藩の保護を受けながらの蔵元が何ヶ所かはあっただろう。因みに、唐津の魚屋町「西の木屋」さんは明和6年(1769年)創業であり、そのほかに複数の蔵元があったであろう。その当時の唐津藩と醤油業のつながりは全く不明だが、何らかの上納金とある程度の保護があったであろうことは推測される。
(三)醤油税について
 お酒類には、税金が課せられていることは、今では常識となっているが、醤油にも税金がかかっていた、といえば、ほどんどの人が、怪訝な顔をされる。
 しかし、実際に明治18年から大正14年までの40年間はお酒と同様に税金がかかっていた。
 明治18年、7月実施の「税則」は、次のようになっている。
 
 「醤油の製造を営業する者は、
  1.製造者1ヶ所毎に免許鑑札をうける
  2.1ヶ所毎に営業税金 5円
  3.製造高 1石【※註】(180リットル)毎に年間1円(明治39年から1円75銭)
  4.その他、自家用醤油の規定、醤油請売業者は製造禁止
 等々の細かい規定がある」
※註:当初は製品1石だったが、後に諸味(もろみ)1石(製品に換算すると約1.2倍)となった。明治20年頃の醤油価格は1.8リットル当たり10銭(0.1円)、18リットル(1斗)当たり1円、180リットル(1石)当たり10円。したがって、諸味1石1円の税金は10%弱ぐらいに相当する。
 
 幸いに、私の手もとに、当時の醤油税に関する資料がある。
 
明治廿五年 起税務統計表 唐津収税署
 税務大学校 和光校舎 租税史料室 史料より
 
 内容は、地租、所得税、酒造税、醔麹営業税、煙草税、醤油税、菓子税、売薬税、船税、車税、鉱業税、銃猟免許税、牛馬売買免許税。
 以上、14種で、
本年度(明治25年度)実収額 131,187円(100%)
 そのうち、
地租86,153円+所得税785円=86,938円(66%)
 間接税として
酒税以下で・・・44,249円(34%)
その中で、醤油税は、
 営業税80円、造石税915円 計995円
 
明治廿五年度
租税実収額
前年度実収額
比較表
醤油税
上段(本年度)
中段(前年度)
下段(増減)
 上記、営業税は醤油免許税は1工場あたり5円だから16工場あったのだろう。
 造石数(出荷1石当たりの税)915円について課税対象となる石数との関係は不明。
 
 別の資料に「間接国税営業人員及び賦課物件個数 明治25年1月1日現在」という表がある。その中で醤油(東松浦郡=現在の唐津市)の諸味石数がある。
製造人員13、場数13
 
査定石数 6,089石(1~12月)
 
 この表にしたがえば、6,089石÷13=1工場あたり、約460石、製品に換算すると年に1升瓶約50,000本、月に約4,000本の規模になる。
 この貴重な資料から、明治25年当時の唐津管内の醤油業の一端をうかがうことができる。
 以上、明治維新、廃藩置県以後の政治、経済の不安の時期、醤油業が自由に起こせる数年の間に、日用品としての安定感、将来有望、永続性を見越しての、傳兵衞の判断には敬服させられる。しかも、4年後には、工場から出火。この災難にもめげず、それどころか益々ファイトを燃やしていく。
 その後の明治大正時代については、長くなるので、次号にゆずります。
 来月もよろしくお願いいたします。
参考文献
「醤油読本」 深井吉兵衛 著 有明書房 昭和31年
「日本醤油業界史」 日本醤油業界