【日光街道 北行】
2区  浅草〜北千住
 
 「走らんか!」のタイトルには、幼稚園児が描いたようなへなちょこイラストがついているが、何を隠そう、描いたのは私だ。字だけでは寂しいかと思って制作時間15秒ほどで描いたのだが、あらためてホームページ上で見ると、いくら何でもこれはちょっとひどい、と思わなくもない。作者が私であることまで公表してしまっては、副社長という肩書の威厳はミジンコほども無い(正しくは、微塵もない)。こんなことで良いのであろうか。
 
では問題。私の今の心境は次のうちどれか。
(1)自画自賛 (2)自問自答 (3)自業自得 (4)自暴自棄
 
答:すべて正解で(1)から(4)へ順に進む。
 
 
 浅草は浅草寺から隅田川沿いの隅田公園に出ると、川を隔てた正面に建設中の東京スカイツリーが迫る。随分高くなったものだ。
 ここから北上して、漫画“あしたのジョー”の舞台であった山谷、泪橋を抜けて南千住へ向かう。
 
 
 地下鉄日比谷線とJR常磐線の線路に挟まれた狭い区画に小塚原(こづかっぱら)刑場跡がある。かつて通勤の常磐線上り電車で、南千住を出るとすぐ左側に大きな地蔵さんの後姿を見ていたのだが、それが刑場跡の首切地蔵(そのものずばりの名前!)だと知ったのは宮部みゆきのエッセイを読んでからだ。気になってはいたのだが、実際に訪れたのは初めてである。晴れ渡って清々しい青空が妙に空しい。  
 
 
 刑場からJRのガードをくぐった隣、回向院(えこういん)には幕末の志士たちの墓が並ぶ。一番奥が吉田松陰である。他に、ねずみ小僧次郎吉や、元祖毒婦と言われる高橋お伝の墓もある。
   また、この地では蘭学者杉田玄白らが刑死者の腑分け(解剖)に立ち会い、「解体新書」の出版に役立ったことを顕彰する碑も建てられている。暗い過去と、しかしそれが医学の進歩に貢献して、私たちはその恩恵を受けていることを覚えておこう。
 
 
 日光街道からは少し逸れるが、遊女の慰霊塔がある浄閑寺に立ち寄る。ここからほど近い新吉原で、劣悪な環境のもとで多くの遊女が命を落とした。特に安政の大地震の際は、逃げ場を失った遊女が多数死亡し、その遺体はこの寺に掘られた穴に投げ込まれたことから、別名投げ込み寺と呼ばれていたという。  
ひまわり地蔵
 同じ境内には、今通ってきたばかりの山谷で亡くなった、身寄りのない労働者を弔ったひまわり地蔵がある。
 
 
   暗い話題ばかりの今回、唯一ほっとする写真。都電荒川線三ノ輪駅近く、常磐線のガード下に最近描かれたばかりの絵。私のイラストより格段にレベルが高いのは当然である。三ノ輪はアーケードの商店街が健在で、なかなか活気のある街であった。
 
 
 三ノ輪にある円通寺。明治維新において、新政府に抵抗した彰義隊は上野戦争(1868年)に敗れて崩壊したが、その時の死者をこの寺の和尚が弔って埋葬し、戦闘の場であった上野寛永寺の黒門もその後この地に移設された。その門柱には当時の弾痕が残っている。休日には家族連れで賑わう上野公園でかつて戦闘があった証拠が、ここに場所を移して残されている。  
 
 
   隅田川に最初にかけられた橋、千住大橋を渡ると、そこはかつて船着場があったところであり、松尾芭蕉も江戸深川から船で出てここに着き、おくのほそ道へと出立した地である。川岸には芭蕉にちなんだ壁画が描かれている。
矢立て初めの句  “行く春や 鳥啼き 魚の目は泪”
 芭蕉の像を過ぎると、日本橋を出て最初の宿場である千住のにぎやかな商店街に入り、北千住駅へと到達した。
 
 
 Pastel北千住店にてこれを購入する。ダイエット目的のランナーにはおすすめできないが、運動してエネルギーを消費した後は、生ビールよりPastelのなめらかプリンである。  
 
 
 今回は墓参りの区間とも言うべき内容であった。私が今日合掌した先には、数万あるいは数十万人の霊があったに違いない。しかも、天寿を全うして安らかな眠りについた人はおらず、非業の死を遂げた人ばかりである。しかしながら、そんな死者を哀れに思い、弔った人々がいたからこそ、私たちは故人の無念を思い合掌することができる。厳粛な気持ちで次へ繋ぐ。
2011年3月
参考文献
 宮部みゆき 著 「平成お徒歩日記」 新潮社
 一坂太郎著 「東京幕末維新を歩く旅」 山と渓谷社
 
今回の走らんか!スポット

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