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【醤油の産地へ 北行】
39区  江戸川台~運河
 
 流山市の東深井地区公園へ向かう。ここには東深井古墳群があって、6~7世紀につくられた古墳が12基残っている。案内板の表示がないとただの盛り土だと見過ごしてしまいそうな小さなものだが、きちんと保存されているところがうれしい。
 栃木県や埼玉県で、街道のそばに古墳があれば必ず立ち寄っている古墳好きの私だが、今月はちょっと趣向をこらして食事を一品作ってみた。名付けて前方後円墳カレー、もしくは古墳でこーふんカレー。古墳を囲む緑を、弊社が今年春に発売した「ココナッツ香る緑野菜とチキンのグリーンカレー」で表現しました。古墳の盛り付けはともかく、このカレーはおいしいですよ。よろしければお買い求めください。
 世の中には日本地理が苦手で、佐賀県がどこにあるかわからないとか、栃木県と群馬県の区別がつかないとか言う人がいる。いや、その程度は普通なので苦手とまでは言わない、という意見もあるだろう。しかし、どんなに地理が苦手な人でも「千葉県は本州、四国、九州の3つのうちのどこにあるか知っていますか。」と質問されたら、馬鹿にするな、と怒るだろう。
 しかし、その質問の正解は本州ではなく、「どれも不正解。」だ。ほとんどの人は気付いていないと思うのだが、千葉県は本州から独立した島なのだ。千葉県とその周辺の略図を書いてみると、千葉県はどことも陸続きでないことがわかる。自然の地形はこうではなかったのだが、江戸幕府がそれまで江戸湾(東京湾)に流れていた利根川を太平洋に向けて付け替えた「利根川東遷」によってこうなったのだ。江戸幕府はなぜそんな工事をしたのか。江戸を洪水から守るためというのが理由だが、東北伊達氏の脅威に対する防衛のために、陸地を分断したという見方もある。
 さらに、左上のはしっこ部分で野田市が千葉本島(勝手に名前をつけた)から分断されているが、そこが利根運河だ。これは明治時代につくられたもので、かつてはここを船が行き来していたのだ。今はほんの少しの水量しかなくて、水運としての役割は終えているが、運河両側の土手は散歩・ランニング・サイクリングをする人におおいに役立っている。
 利根運河交流館なる建物があり、せっかくなので入って館長さんから説明していただく。東北・北海道から江戸へ向かう船は房総半島をぐるりと回っていたが、それは黒潮の流れに遭って危険だった。利根川が太平洋とつながると、銚子から利根川に入って江戸川を経由する内陸ルートができたが、川の分岐点付近に土砂が溜まって浅瀬の難所になった。そこで難所を避け、かつ距離を短縮するためにつくられたのが利根運河で、オランダ人技師ムルデルの監督により明治23年(1890年)に完成している。
 土手の斜面には彼岸花がたくさん咲いている。開花時期に訪問できて運がいい、または運河いい。この花はお彼岸にお墓で咲いているイメージがあるからか、赤色が少しきつ過ぎるからなのか、どうもあまり人気がないようだが、ここには赤以外にも黄色やピンクの花があってなかなか美しい。
 台座に福之神と彫られた像がある。上の部分が欠けて修復の跡があるが、BILLIKENと読める。私はビリケンさんにあまりなじみがないのだが、先日娘が大阪へ行って通天閣のビリケンさん像を見てきたという。
大阪が本場と思っていたら、実はアメリカ発祥だそうだ。通天閣公式ガイドによると、『1908年アメリカの女流作家が、夢で見たユニークな神様をモデルに製作したんやとか。その当時世界的に大流行した幸運のマスコットが遠く新世界にまで伝わり、今も庶民的神様として親しまれとります。』だそうだ。
 運河沿いの土手から窪田味噌醤油さんの工場が見えて、ここからは醤油の産地野田に入る。ところで再び利根運河の話に戻るが、明治時代から銚子と野田は関東の二大醤油産地として競っていたはずだ。東京へ輸送する距離と難易度の点では野田が有利なのだが、銚子にとってそのハンデを軽減することになる運河を、よりによってライバルである野田につくるとは、野田の醤油屋たちは反対しなかったのだろうか。おそらく野田の人々は私利私欲にとらわれることなく、社会全体の発展に寄与する道を選んだのだろう。
参考文献 : 
 日本史の謎は地形で解ける 文明・文化編 竹村公太郎著 PHP文庫
2014年9月
 
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