【醤油の産地へ 北行】
41区  野田~川間
 
 東武野田線に乗って野田市駅で下車する。野田という駅が他にあるわけでもないのに、なぜか「市」がついている。どうして野田でないのだ。野田市でなければならない理由はないのだし。と、ぶつぶつ言いつつ出発する。
 醤油煎餅屋や漬物屋をはじめ、昔からの商店が残っている歴史ある街だが、街道沿いに立つひときわ立派な建物は野田商誘銀行跡だ。野田の醤油醸造家たちは地元に多大な貢献をしているのだが、銀行も自前で設立している。銀行名の商誘(しょうゆう)は商いを誘うという造語で醤油にかけたものだ。なんだダジャレか、などと言う資格はもちろん私にはない。言葉遊びをするのが昔からの醤油業界の伝統だということにしておこう。
 野田の醤油発祥地の石碑を訪ねる。室町時代に飯田市郎兵衛家がはじめて醤油を醸造した、飯田家亀屋蔵の遺跡、とある。ここでつくられた溜(たまり)醤油を甲斐の武田氏へ届けたのが野田の醤油の始まりだとされている。
 飯田家はその後どうなったのか、亀屋蔵とは亀甲萬の紋と関係があるのか、当時の関東に溜醤油の文化はあったのか、なぜ甲斐武田氏に納めたのか、このことが現在の山梨の醤油会社テンヨ武田さんにつながっているのか、など疑問の種は尽きず、調べ始めたら深みにはまりそうだ。すぐ横にある神社が醤油と関係があるのかどうかもわからないが、何か御利益があるかも知れぬ、と期待してお参りする。
 街道から脇道に入った所に、立派な黒塀に囲まれたキノエネ醤油さんがある。同社は、野田の醤油屋たちが大正時代に大合同して野田醤油(のちのキッコーマン社)を設立した時、ただ一つ参加しなかった醸造家だ。合体して規模拡大のメリットを追求するのか、企業の独自性を大切にするのかの経営判断が必要ななかで、後者を選択されたのだろうか。先日キノエネの山下社長にお会いした際にこの件をお聞きしたのだが、それに対するお答えはここでは伏せておこう。
 広大な清水公園の中には入らず、公園に沿って脇を通過する。この地域では有名な観光スポットで、昔家族で来たことがあるが、フィールドアスレチックの蟻地獄のようなすり鉢の底から、子供がどうしても登って来れないのを笑って見ていた記憶がある。
 実はこの公園も、明治時代に野田の醤油醸造家が開設して現在に至っているものだ。鉄道、銀行、病院、水道、公園とこの地域の公共施設や社会基盤の多くに醤油醸造家が関わっている。偉大なり、野田の醤油。
 公園の木々は黄色や赤に色づいているのだが、その脇には十月桜なのか四季桜というのか正確な種類はわからないが、桜が咲いている。桜は春のものとは限らず、紅葉を背景に眺めるのもこれまた乙なものである。
 醤油の産地野田を抜け、この後は新しい住宅地の街並みを通過して川間駅に至る。
 キッコーマンをはじめ、当社も含めて醤油の商標には六角形の亀甲が多く使われている。今回のコースとは関係ないが、亀甲の話題をひとつ。
 金沢城に行った時に、案内ボランティアの方に城内を詳しく説明いただいたのだが、長大な石垣に二ヵ所だけ亀甲型の石が使われている場所を教えられた。さまざまな多角形が不規則に並ぶ中で、たしかに正六角形に整えられた石が組み込まれている。金沢城はたびたび火災に見舞われたため、水中で暮らしている亀を石垣に組むことで火除けの願いがこめられたもの、といわれる。
2014年11月
 
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