【醤油の産地へ 北行】
51区  土浦
 
 醤油の産地を目指して走る旅は土浦にやってきた。あまり知られていないのだが、土浦は江戸時代から明治にかけて野田、銚子と並んで関東における醤油の三大産地だったのだ。この地は、筑波山のふもとの平野で醤油の原料である大豆や小麦がとれ、できた品物は霞ケ浦、利根川、江戸川を経て江戸まで水路を使って運べたため、醤油醸造が盛んに行われていた。
 醤油のことを「紫(むらさき)」とも言うのは、筑波山の雅名「紫峰(しほう)」が語源だとこの地方では伝えられている。
 土浦城は別名を亀城(きじょう)と言い、その名前の由来は、平地にあって周りに堀を巡らせた城の姿が、水に浮かぶ亀に似ているからだと説明されている。城に隣接する土浦市立博物館で当時の絵図を見ると、まあ亀に似ていると言われればそう見えないこともないような気もしないではないがどうなのだろうという感じである。
 では、亀城と呼ばれるにふさわしいものはないかと堀をのぞくと、たしかに亀がいた。しかし残念なことに、今問題になっている外来種のミシシッピアカミミガメであった。では他に、と探すと、石製のベンチ一つひとつにかわいい亀の彫刻が乗っていて、なかなか良い感じで亀城を演出している。
 私がなぜ亀城(土浦城)を目指して来たのか、それには理由がある。弊社の商標は六角形の亀甲の中に、社名の頭の字である宮を入れた「亀甲宮」だが、亀甲印を商標にしている醤油屋は全国に数多くある。その亀甲印の起源の一つが、この亀城であるからだ。
 亀甲印の由来について、代表的なキッコーマン社の「亀甲萬」は1820年ごろ下総国の一の宮である亀甲山香取神宮にちなんで定められたと説明されている。
 一方、土浦の醤油屋では、国分勘兵衛が立ち上げた大国屋が「亀甲大」、柴沼醤油醸造さんが「亀甲正」を使われているが、それは亀城にあやかったものだと伝えられている。土浦で使われ始めた亀甲印がやがて全国土浦うら、いや津々浦々の醤油屋に広がり、当社もその影響を受けたひとつなのだ。
 大国屋は明治時代に醤油醸造から撤退されているが、土浦の醤油屋ではただ一つ、柴沼醤油醸造さんが1688年(元禄元年)の創業以来、320年を超えて続いておられる。市街地から少し離れた川沿いを進むと同社の風格ある門前に着いた。日曜日なので門は閉じられているが、工場横の土地が桜並木の「紫峰の郷」として整備されており、醸造に使われていた木桶が展示物として置かれている。九州産の杉の正目と、同じく九州産の竹を使った明治時代初期のものとのこと。こうして歴史がきちんと伝えられていることに感心する。弊社も130年以上の歴史があるのだが、同社の前ではほんの若造でしかない。
 木桶といえば、今年の初めに訪ねた、柏市でかつて醤油醸造元だった旧吉田家には、土浦から木桶を購入したとの説明があった。当時の醤油生産地には、醸造に使う桶や、輸送のための樽を作る職人がいて、またそれを売買する産業もともに栄えていたのだ。国分株式会社の三百年史には、同社が樽の売買をしていたことの記述があるのだが、醤油樽は新品よりも一度使ったものの方が高く評価されていたとのこと。理由は、日本酒であれば木の香が酒に移るのは好ましいことだが、醤油はそうではないので新品は敬遠されたから。酒飲みとしては、なるほどと納得させられる理由だ。
 土浦の観光案内によると、土浦一高の建物は一見の価値がありそうなので訪ねてみる。学校のセキュリティが厳しくなっている昨今であるし、休日で正門は閉まっているし、どうしたものかと迷いつつ、クラブ活動中の高校生たちの脇をおそるおそる校内に入る。お目当ての旧制土浦中学の建物は、建築素人の私ではうまくその良さを説明できないのだが、美しい。こういう立派な学舎から立派な高校生が巣立っていくのだろうなと思う。
2015年9月
参考:柴沼醤油醸造株式会社様ホームページ
    「日本橋で三百年」 国分株式会社
今回の走らんか!スポット

より大きな地図で 走らんか!51区 を表示