走らんか副社長
【中山道 西行】

82区 吹上~熊谷

JR高崎線の吹上駅を出てしばらく行くと、中山道は荒川の土手沿いの道にぶつかる。下の写真が土手の上から荒川を写したものだが、う~む、どこに川が流れているのかまったく見えない。向う岸がどこにあるのかもはるかかなたでわからない。このあたりの荒川は幅が広く、鴻巣市における荒川は川幅日本一と認定されていて、その幅は2537mあるのだそうだ。これだけ離れると向う岸で何があっても「対岸の火事」で自分たちには関係ないどころか、そもそも何が起こっていても気が付かないだろう。

ところで、私はこれまで「川幅」の定義というものを考えたことがなかったのだが、川幅とは流れている水の幅ではなく、両岸の土手から土手までの距離を指すのだそうだ。だから、この見渡す限りの農地と草原は川の中の風景なのだ。

これだけ川幅が広いのは防災の観点では重要なことで、川が増水した場合にはこのスペースが巨大な貯水池となって洪水を防ぐのだ。しかし、この“川”の中には農地があり、ゴルフ練習場もある。有事の際には水没する前提で営まれているわけで、大雨が降った時はここが水没することで土手の外側が助かるのであればそれで良い、という犠牲の精神で成り立っている。

しばらく進むと、土手の上に“カスリーン台風による堤防決壊地点”の碑がある。昭和22年9月、台風による洪水で1000人を超える犠牲者を出した災害はこの地点から起こったのだ。しかし、ふと疑問に感じたのは、日光街道を北上していた際に、栗橋市あたりで利根川が決壊したことが説明されていたのを覚えていたので、洪水の発端はここではないのではと思ったからだ。ここに設置してある説明板によると、利根川が決壊したのも、ここで荒川が決壊したのも事実で、両河川からあふれた濁流が合流して、下流域の埼玉と東京を飲み込んだのだった。

決壊地点のすぐそば、というかすぐ下にはマンションが建っている。よりによってどうしてこの地点にマンションを、と思ってしまうが、決壊した当時とは違う現代の治水土木技術を信頼してのことだろう。

カスリーン台風による堤防決壊地点

ところで、この荒川は治水工事によって流れを変えられた新しい川なのだが、では元々あった荒川はどうなっているかというと、その名も元荒川として残っている。土手を下りると住宅地の間を細々と流れている元荒川を見つけた。川幅は現在の荒川の1000分の1ほどしかないが、その水が澄んでいることに驚く。失礼ながら、こんな街中を流れるこんな川がこんなにきれいだとは想像していなかった。清流に棲むムサシトミヨという魚がいるらしいが、残念ながらそれは確認できなかった(仮に魚を見つけても、その種を見分けるほど私は魚に詳しくないのだが)。

さらに少し進むと、橋の下に「一級河川元荒川起点」の標石があるのを見つけ、おぉここが川の起点か、となんだか感動する。大きな河川としての主役の座は後輩に譲り、自らは”元“という肩書になっても腐ることなく清い流れを保っている荒川さんは偉い。


旅は熊谷市に入る。『熊谷はかつて熊谷氏が治めていた地で、熊谷寺がある』という文において、“熊谷”は順に“くまがや”“くまがい”“ゆうこく”と読む、まことにややこしい街らしい。


さて、過去3回続けた弊社“かけるスティックカレー”を使った作品だが、もう終わりにしようと思いつつ、前回ひまわりを描くにあたってゴッホの作品をあらためて確認しているうちに、ひまわり以外の作品にも絵心が刺激されてしまった。ゴッホの“種をまく人”に創作意欲ならぬ模倣意欲を触発されて、“きぬさやの種をまく人”を描いてみた。成長し過ぎたきぬさやを使ったので、種がでかすぎるのはご愛嬌だ。

私だけがお絵描きを楽しんでいるようだが、日々“キャラ弁”作りに励んでおられる皆様、どうぞ“かけるスティックカレー”をお買い求めください。そして作品を弊社宛に投稿していただけるとありがたいです。

2018年5月

今回の走らんかスポット