「去華就実」と郷土の先覚者たち
第9回 掛下重次郎
耐恒寮で高橋是清の教えを受けた第一期生から、天野為之、辰野金吾、そして曽禰達蔵をとりあげたが、4人目は掛下重次郎(かけしたじゅうじろう)である。大審院判事(今の最高裁判所判事)、大審院検事(今の最高検察庁検事)を務めた法律家、法学者であり、宮島醤油ともゆかりのある人である。
(1)生家周辺と少年時代
掛下重次郎は安政4年(1857年)8月15日、唐津藩士掛下従周の二男として、唐津城北三の丸、埋門小路(うずめもんこうじ)に生まれた。このあたりは唐津城三の丸を囲む北側城壁に近く、下級武士の住居が集まっていた。城壁沿いには「五間丁馬場(ごけんちょうばば)」と呼ばれる馬の訓練、練習コースがあり、そこから海岸(西の浜)へ出る門が「埋門(うずめもん)」である。掛下家はこの埋門のすぐ近くにあった。三の丸城壁は今もよく原型をとどめているので、掛下家の場所も特定できており、今の住所表示では唐津市北城内7番地にあたる。
このあたりは現在、唐津城内の往時をしのぶ散策の中心となっている。二の丸と三の丸を隔てる二の丸堀、そこから西の三の丸北城内には時の太鼓櫓、河村美術館、埋門の館、西の門館などの文化施設があり、北側城壁の外には、国の重要文化財である高取邸がある。旧三の丸南側敷地には、唐津神社、曳山会館、文化会館、大島邸などがあり、南端の大手門付近が現在、大手口と呼ばれる市の中心部である。なお、馬場名の表記は「五軒町馬場」、あるいは「御見馬場(ごけんばば)」とも書かれる。
耐恒寮に入学した時、掛下重次郎まだ14歳であった。辰野金吾や曽禰達蔵に比べると若かったので、高橋の上京に際して同行せず、19歳になった明治9年(1876年)4月、唐津藩江戸詰であった親戚を頼って上京する。上京後すぐに司法省法学校の入学試験に合格し、司法省法学校正則科に入る。2期生であった。明治10年(1877年)に司法省法学校学校課より公表された「法学生徒初年一期考課表」によると 101名の学生中、掛下の成績席次は13位だから、なかなかの秀才ぶりである。同級生には原敬、福本日南、古賀廉造、富谷太郎、陸羯南がいた。第2期生は、主としてフランス人教師ジョルジュ・アペールに法学を学んだ。
(2)裁判官・法律学者・教育者
明治17年(1884年)、司法省法学校を卒業する。直ちに判事補となり、最初の任地は広島始審裁判所であった。その後、福岡、長崎、名古屋の各始審裁判所で判事を務め、東京控訴院の検事を経て、明治23年(1890年)に名古屋地方裁判所部長、27年(1894年)には東京控訴院判事、 大阪控訴院部長判事となった。そして明治31年(1898年)、41歳の時、大審院判事の職に就いた。次いで43年(1910年)には会計検査官、懲戒裁判官、大正2年(1913年)には大審院検事という経歴を歩んだ。優秀な裁判官であったことを示す経歴と言えるだろう。職業柄、とりたてて波乱万丈であろう筈もなく、謹厳で立派な人物であったようだ。
裁判官としての人生以外に、掛下には法律学者、教育者としての顔がある。明治27年(1894年)に37歳で関西法律学校(今の関西大学)の講師となったのを皮切りに、明治法律学校(今の明治大学)、和仏法律学校(今の法政大学)などで民法などを教授した。また、こうした特質から、国の実施する各種資格試験の委員を永きにわたって務めた。ざっと列挙するだけでも、公證人登用試験委員、執達夫登用試験委員、判事検事登用第一回試験委員、判事検事登用第二回試験委員、弁護士試験委員などである。
晩年は教育者としての性格を強め、明治大学と深く関わる。明治大学の校友会理事、経緯学堂評議員、終身商議員、学友会副会長、理事、学監などの要職を経て、明治42年(1909年)に明治大学の第二代図書館長となり、12年間にわたってこれを務めた。同図書館の記録によれば、掛下は蔵書の充実に努めた。なかでも、大正7年(1918年)にステルンベルヒ博士の蔵書3000冊を入手したことが特筆されている。ステルンベルヒ蔵書の中心は、法律、経済、哲学、文学に関するもので、カント著述の初版物の揃もあり、貴重なものであった。しかし惜しいことに、この蔵書はすべて、関東大震災によって焼失した。
掛下は昭和6年(1931年)、新宿区西大久保一丁目の自宅で没した。75歳であった。掛下家の墓は唐津市十人町の法連寺にある。宮島醤油本社から1キロメートルのところ、静かな寺町の一角である。
ところで、掛下重次郎の姉トヲは同じ唐津藩士である増田家に嫁ぎ、ツルという娘があった。重次郎の姪(めい)にあたる。ツルは、宮島醤油の二代目社長である宮島徳太郎(創業者・七世傳兵衞の長男)の妻となった。三代目社長、八世傳兵衞の母であり、現在の(九世)傳兵衞会長、傳二郎社長の祖母である。たいへん心のやさしい女性であったという。宮島本宅には、ツルが毎日の暮らしを綴った日記や和歌が遺されている。
(3)平沼騏一郎のこと
掛下の周辺には、たくさんの法曹仲間がいた。平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)もその一人である。掛下は33歳の時に騏一郎の妹、平沼藝(シナ)と結婚する。ここで、騏一郎のことを少し記しておこう。堅実そのものだった掛下とは対照的に個性が強く、数奇な生涯を送った人である。
(大正11年5月、西大久保の自宅)
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より
平沼騏一郎は慶応3年(1867年)岡山県美作(みまさか)に生まれた。掛下より10歳若い。明治21年(1888年)帝国大学法科大学校(現在の東京大学法学部)を主席で卒業し、司法省に入る。司法界きっての秀才で、司法省民刑局長などを経て、明治38年(1905年)には大審院検事、大正元年に検事総長となる。このかん、日糖事件、大逆事件、シーメンス事件などの捜査を陣頭指揮する。
大逆事件とは、明治43-44年(1910-11年)、明治天皇の暗殺を計画したなどの容疑で、全国から数百人の社会主義者、無政府主義者が検挙された事件である。大審院は一審だけの非公開公判で幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら24人を死刑にし、わが国の社会主義運動に大打撃を与えた。
本来、検察官僚というのは政治的中立性と公正さが求められる立場なのだが、平沼は皇国思想に基づいて「国本社」、「修養団」を結成するなど、独自の思想運動、教育運動を積極的に展開し、社会主義者を敵視する。リベラリストの西園寺公望(さいおんじきんもち)などは平沼のこうした国粋主義的傾向を嫌い、「迷信家だ」、「神がかりだ」と批判する。大正デモクラシーとは対極にあった人物だが、検察官僚としての辣腕(らつわん)ぶりが認められ、政界においても次第に影響力をつけてゆく。
いっぽう、平沼には、対米戦争を避けるために、米国のグルー国防長官代理と密かに接触して関係打開の道を探るなど、現実主義者の面もあった。このため「米英への密通者」として右翼に狙撃され、至近距離から顔面と首に6発も銃弾を打ち込まれる。それでも回復して不死身、不屈ぶりを発揮するところなど、やはり只者ではない。教育者としては、日本大学と関わった。日本大学の創立者である山田顕義(やまだあきよし)は法学者、法務官僚であったから、人的なつながりがあったのだろう。山田に続いて二代目の学長、総長を引き受けている。
大正12年(1923年)、平沼は第二次山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ)内閣の司法大臣となる。昭和11年(1936年)には、天皇の最高諮問機関である枢密院の議長に就任した。昭和14年(1939年)、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の総辞職を受けて内閣総理大臣となる。しかし当時、ナチスドイツが日独伊防共協定を結びながらいっぽうで独ソ不可侵条約を結ぶという二面作戦をとることを、日本政府は予知できなかった。こうしてわが国の外交政策は行き詰まり、その責任をとる形で平沼首相は短命のうちに辞職する。以後、わが国は対米全面戦争から敗戦への道を突き進んで行く。
(4)敗戦をめぐって
平沼は首相の座を降りたものの、戦時下、国策の遂行に責任ある立場にあった。昭和20年(1945年)8月、ポツダム宣言(連合国による対日降伏勧告)の受諾を決めた御前会議にも枢密院議長として出席していた。この御前会議に出席した6人の国政責任者たちの最終見解は割れた。鈴木首相と東郷外相は受諾を主張、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍司令部長の3人は拒否を主張した。枢密院議長であった平沼の意見が最後に求められた。平沼は軍部代表の3人に対して本土決戦の準備状況を厳しく質問し、今やわが国に抵抗力のないことを最終的に理解する。そして天皇中心の国体を維持するという条件つきでポツダム宣言受諾の立場を表明する。
平沼の意見表明によって会議は受諾3、拒否3の結果となった。鈴木貫太郎首相が天皇に最終決断を託し、昭和天皇が自らポツダム宣言の受諾を決めた。
鈴木首相と平沼枢密院議長がポツダム宣言の受諾を主張したことにより、軍首脳は二人の暗殺を指示する。わが国の軍部は、敗戦のその日に至っても、「批判者を殺す」という手口を変えなかった。昭和天皇が正午に「終戦の詔勅」をラジオ放送される数時間前、つまり8月15日の早朝、二人は軍部によって襲撃される。平沼邸を襲撃したのは佐々木憲兵大尉率いる部隊であった。平沼邸は炎上したが、騏一郎本人は間一髪、難を逃れた。このあたりのいきさつは、騏一郎の孫(養子)である平沼赳夫さんが詳細に記録しておられる。赳夫さんは当時6歳で、幼い身でこの焼き討ちと暗殺未遂事件を体験された。赳夫さんは現在、衆議院議員で、小泉純一郎内閣の経済産業大臣である。
襲撃により焼け出された平沼一家は、騏一郎を含めて、しばらく、西大久保の掛下家に身を寄せている。重次郎は既に没していたが、ご子息たちがおられた。昭和23年(1948年)、戦勝国が敗戦国を「裁く」場となった極東国際軍事裁判(俗に東京裁判とも言う)において平沼はA級戦犯の判決を受け、終身禁錮刑を言い渡された。裁判では一言も口を開かなかった。巣鴨の監獄に繋がれたが、獄中で健康状態が悪化し、85歳という高齢のため一時出所を許されて治療中の昭和27年(1952年)、死亡した。
平沼は独立独歩の人であった。誰にも似ていない独自の生き方をした。政治家には敵がつきものだが、それでもこれほど敵の多かった人は珍しい。左翼運動の弾圧者でありながら右翼のテロを受け、終戦時には軍部に命を狙われ、最後は連合国の手で牢獄に繋がれた。掛下重次郎のような堅実無比な人の傍にこういう人がいるところが、人間という存在の多様性を表しているようで興味深い。
参考文献:
今号の内容は、掛下重次郎については明治大学図書館ホームページに、平沼騏一郎については平沼赳夫さんのホームページに教わるところが多かったです。ここに記して感謝いたします。