「去華就実」と郷土の先覚者たち
第11回 吉原政道
耐恒寮第一期生のうち、吉原政道(よしはらまさみち)は、その生涯と業績が比較的詳細に分かっている一人である。晩年、自叙伝を書いたし、論文や著書も残っている。前回の麻生政包(あそうまさかね)と同じ鉱山技術者だが、途中から麻生とは違う人生を送り、事業家となった。超人的な努力で、牟田部炭鉱、杵島炭鉱など九州と中国地方の各地で炭鉱を開拓した。
(写真提供:唐津市)
(1)下級武士の子
吉原政道は嘉永6年(1853年)1月22日、唐津城下桜の馬場で生れた。父正信は唐津藩の下級武士、母は千代と言った。祖父は殿中大広間詰の家臣だった。政道は7人きょうだいの長男だった。
隣町の裏坊主町に生まれた辰野金吾は吉原より1歳年下だが、この坊主町、桜の馬場という一帯には、下級武士の住まいが集まっていた。吉原は自叙伝の中で、当時の子供たちの様子を活き活きと描いている。山で木の実を取って食べ、川では「さで」という網で魚を掬(すく)って遊んだ。
柿、山桃、筍などを盗んでは持主に叱られ、毎晩のように坊主町組と桜の馬場組に分かれて、各々20人くらいの武士の子供たちが竹ざお片手に「叩き合い」をし、相撲、木登り、大名行列遊びなど、元気で楽しい少年時代を送ったという。
藩の御勘定組頭で漢学者でもあった戸田源衛門が吉原の2軒先に住んでいたので、吉原は9歳の時、戸田の主宰する寺子屋に入る。そこで読み書きを習う。堀木猪之蔵、丸山銅二郎、三沢善太郎、清水亀之助など20人ほどが学んでいた。
ところで、武士というのは、その階級に応じて殿様から「緑(ろく)」を貰う。今で言えば公務員の給与だが、お金だけでなく、いろんなものが現物支給される。土地と家が支給品の代表格だが、それ以外に、米、薪(たきぎ)、木炭、紙、灯油など日用品もある。下級武士の場合はそれらの支給量が少ないから貧しいのだが、別の見方をすれば、殿様から生活水準自体が指定される訳で、その水準に甘んじている限り、衣食住に格別困ることはない。適齢期に達した吉原も、そういう武士生活に入る。
(2)少年武士として唐津城に勤務
慶応2年(1866年)、父正信が長州征伐のため出陣する。連載第8回で記したように、当時の江戸幕府老中小笠原長行(唐津藩主小笠原長国の世子)が長州征伐の指揮官であり、唐津藩は幕府の指示により出兵した。この機に、吉原政道は唐津城に勤務することになる。14歳での初出勤である。籠かきや人夫頭などが勤める「御旗組」という部署の見習役として、城内水の御門の門番をした。二日に一回の宿直があるので緊張する。翌慶応3年(1867年)、元服(げんぷく。武士の成人である数え年15歳)を迎え、藩の家老や御用人たちの給仕をする「表坊主役」という職を与えられる。初めて給料を貰う。更に翌明治元年(1868年)には、殿様の側近の給仕をする「奥坊主役」となり、御殿の掃除、殿様の食膳運び、風呂の世話などの仕事を貰った。奥坊主をやる少年武士たちは皆、頭をくりくりに丸め、いわゆる「坊主頭」となって先輩から順に仕事の手順を教わる。
風呂に関する苦労話がある。殿様の好みに合わせ、奥坊主は「ぬるからずあつからず」の湯加減をマスターせねばならない。これに2週間の訓練を要する。殿様が湯に入られると、御手を何回、御足を何回、御背中は何回こする、というようにちゃんと規定があって、その通りにせねばならない。そして湯から上がられると、綺麗な「おか湯」を大柄杓(おおひしゃく)で何遍かけるという定めがある。殿様と奥坊主とでは身分が違いすぎるので、直接に会話をしてはいけない。風呂場では双方無言を通し、視線を合わせてもいけない。吉原少年にとって、それはたいそう窮屈なものだったという。
(3)耐恒寮、そして上京
御殿勤務となってからも戸田塾での勉学を続けていたが、明治元年、十人町の大草庄兵衛の塾に移る。大草は漢学者だったが、同時に砲術大草流の元祖でもあって、藩内のおもに庄屋の子弟が通っていた。唐津藩はこういう私塾が充実しているのが特徴であった。明治4年(1871年)、耐恒寮の開設にあたって入寮し、17歳の高橋是清から英語を教わる。吉原は18歳だった。吉原の記すところによれば、高橋先生の英語は大したもので、日本語の方がむしろ下手なくらいだったという。吉原は多くの生徒に比べて年長で、しかもすでに御殿勤務の武士だったので、「耐恒寮官試補」という身分を与えられ、寮内の監督と、一部女子生徒への英語教育を担当する。次いで「耐恒寮寮官」となる。
高橋の上京にともなって耐恒寮が閉鎖された時、吉原はいたく落胆する。折角学びかけた英学が無駄になることを残念に思い、自分も東京に出て勉学を続けたいと両親に相談する。家計の苦しい中、両親は承諾しないが、繰り返しの嘆願に折れて、父は30円の旅費を工面する。武士として大切な衣類や刀剣の類を父が売り払ったことを知った吉原は「この30円の外は、どんなに困ったことがあっても、後になって1銭でも金をねだることは致しませぬ」と誓いを立てて東京に出発する。辰野金吾、麻生政包、竹林峰松が同行した。
東京への旅のことは、前回に詳しく記した。同行者の中でも吉原と辰野は気性が激しく、よく口論になった。歩いて箱根を越えた時など、口論の果てに街道の真ん中で二人が掴み合い、組みつもつれつの騒ぎとなり、たまりかねた麻生と竹林に分けられたという。こういう風だから、身体はいつも傷だらけだったと自ら記している。少年時代の「叩き合い」の延長だったのだろう。
東京に着くと、唐津藩士である山口文次郎宅に住み着き、山口が開いていた英学塾の塾僕として働く。教育の仕事だけでなく、門番、掃除、食事の世話、馬の世話など、あらゆる雑役をした。東京で火事があればどこへでも出かけ、火事見物を楽しんだ。
(4)工学寮・工部大学校とジョン・ミルン
明治6年(1873年)8月、工学寮の第一回入学試験が行われ、20人の官費生が選抜された。わが国初の工学エリートの誕生である。高峰譲吉、志田林三郎らに交じって、耐恒寮出身者からは曽禰達蔵と麻生政包の二人が選ばれ、入寮した。生活費と学費のすべて、及び将来の工部官僚としての就職までもが保証された。いっぽう他の者は苦学生としての毎日が始まる。吉原は通学生として及第したが、生活費と学費を自分で工面せねばならない。金策は全くあてがないので、勉学をあきらめて傘屋職人になることを考え、岡田という寮監に相談するが、引き留められる。
吉原の生涯を貫く金策が、ここに始まる。番丁の西脇丹治氏、大蔵省の篠崎欣二氏、小笠原家勤務の鈴木乗政氏など、唐津藩ゆかりの人々を訪ね、借金をしながら勉学を続け、明治7年(1874年)4月、工学寮官費生試験に合格する。21歳であった。吉原は東京での生活基盤を得た。
工学寮における教育の特徴は、徹底した現場教育、実用主義である。国力を急速につけるという明治政府の方針に英国の学界が協力したもので、向学心に燃える若い日本人たちに工業技術の基礎を叩き込むために、英国政府はかなり優秀な、各分野の若い学者たちを送り込んだ。明治9年(1876年)、英国から鉱山学者ジョン・ミルン(John Milne)が来日し、工学寮教授となる。まだ25歳であった。翌年、工学寮は工部大学校と名を変え、教育機関として充実してゆく。
『旧工部大学校史料』より
ジョン・ミルンは工部大学校で鉱山学と地質学を教えた。ミルンの現場主義は徹底している。吉原はミルンの指導のもと、日本全国を歩いて、鉱山や地質、地形の調査研究を行った。明治10年春から13年春にかけての吉原の実地研修記録が残っている。
明治10年4月 | 上州中小坂鉄山、下野国草津、足尾鉱山、日光 |
明治10年6-7月 | 浅間山頂、越後長岡、新潟、佐渡、下諏訪、甲府、三島地方、大磯、箱根、江ノ島 |
明治11年4月 | 冨士山裾野、京都、大阪、名古屋、四国別子銅山、土佐国高知、豊後国別府、生野銀山、天橋立、伊勢地方 |
明治11年8月-13年4月 | 上州中小坂鉄山、但馬生野銀山、筑後三池鉱山、佐渡金山、羽後院内銀山、羽後阿仁銅山、陸中釜石鉄山 |
この実地研修は実にたいへんなものである。特に最後の2年間は、ほとんど学校に行かず、ずっと旅と穴掘りを続けている。明治11年にはコレラが大流行した。一行は行く先々で全身を消毒しながらの旅であった。頑強な吉原も佐渡でついに激しい下痢に遭うが、かろうじて回復する。以後は感染を避けるために1ヶ月も鉱山を離れて山寺にこもり、外界との交渉を絶った。また、生野、三浦、佐渡の鉱山では、長いあいだ地底での採鉱作業に従事している。この旅から帰るとすぐ卒業だから、結局、工部大学校では机に向って勉強した形跡は余りなく、旅と現場実習に明け暮れていたようだ。当時の鉱山学というのは頭脳より体力という感じさえする。
ところでミルンは日本で幾度か大きな地震を体験した。その研究により、地震学の世界的権威となる。地震計の発明者としても知られる。
(5)三池鉱山
明治13年(1880年)春、吉原は工部大学校を卒業し、工部省に勤務する。勤務地は三池鉱山分局。27歳であった。三池での吉原の業績の第一は、七浦炭鉱の開拓とされている。七浦鉱は出水が多く、再三にわたって水の事故が発生するので採炭困難と言われてきた。坑長となった吉原は不眠不休で働き、3年を費やして竪坑の完成をみた。この時期の論文として、吸水ポンプの研究・試作報告がある。しかし、余りに過酷な生活をしたため、胃を病んでしまう。
ところで、工部大学校卒業生が中心になって「工学会」という組織を作っていた。わが国の工学関係学協会の始まりである。三池時代の吉原は、鉱山監督局員として各地の炭鉱を調査研究し、その結果を工学会の機関誌である「工学会誌」に寄稿している。明治20年に長崎県、福岡県の炭鉱に関する47ページにわたる総合報告、翌21年には豪州ニューサウスウェールズ炭鉱に関する17ページの報告、及び「三池鉱山景況」という33ページの報告がある。これらの研究報告はたいへん充実したもので、当時、吉原が三池鉱山において技術面で指導的立場にあったことを示している。また、原価計算などを通して、経営者としての側面も見ることができる。
掲載した炭層図
(西に向かって斜めに延びる
鉱脈が描かれている)
三池鉱山は明治22年(1889年)、国営鉱山から民営へと変わることになった。三菱との激しい入札競争の末、三井が経営権を握る。三井物産の創業社長である益田孝(ますだたかし)が経営者として派遣され、技術陣のトップとしては団琢磨(だんたくま)が着任した。
団は黒田藩(福岡藩)出身の俊才である。明治4年(1871年)、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らを主要メンバーとする、いわゆる岩倉使節団が米欧に派遣されたが、当時14歳の団は留学生として同行した。米国ではマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ。明治11年(1878年)に帰国し、帝国大学奏任助教授として天文学を教えたり、東西の文化に造詣が深く、美術研究家フェノロサとはボストン時代から無二の親友という多才の人である。技術者ながら後に三井物産の社長となる。
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より
明治17年(1884年)団は工部省に入り、三池鉱山監督局に勤務する。三井鉱山は出水が多いので、採鉱現場が地下深くなるにつれて、坑道に溢れる水を汲み上げることが難題になっていた。団が着任した当時、採炭夫と揚水夫の人数が同じくらいだった。団は揚水技術の革新による合理化を主張し、明治20年(1887年)にはデーヴィーポンプなど最新の揚水技術を身につけるために再度訪米した。団の才能に着目した益田は「入札価格の中には団の値段も入っている」と言って、団を技術スタッフのリーダーに指名した。工部大学校閥と言われた三池の技術陣において、革新的な人事であった。吉原の立場は難しくなった。三井側は吉原に、団と共に三井会社で働くことを求めたが、吉原はその誘いを断り、同時に国家公務員の立場をも捨てて、明治22年(1889年)10月、故郷唐津に帰る。麻生政包も海軍省に移って三池を去った。
団の揚水技術によって地下深くからの採鉱が可能となり、三池鉱山は「大立坑時代」を迎える。以後、三池鉱山は我が国最大の鉱山として巨利をあげ、三井が大財閥へと成長する原動力となる。明治22年は、三池鉱山の歴史が大きく動いた年だった。
(6)牟田部炭鉱・杵島炭鉱・長門炭鉱
故郷に帰った吉原は、かねてより計画していた牟田部(むたべ)炭鉱の開拓に着手する。唐津の南郊外、現在の地名では佐賀県東松浦郡相知町牟田部という所にある。非常に燃焼効率の高い石炭、いわゆる一等炭が発見されていた。吉原は東京と九州を往復して資金調達に奔走し、自らが経営者となって操業にこぎつける。しかし掘ってみると炭質が素晴らしい代わりに坑内ガスの発生量が非常に多い。坑内爆発や火災が相次ぐ。吉原の在任中、30-40人が火災や爆発で命を落とした。吉原自身も、明治24年の大爆発時には坑内で遭難し、殆ど絶望的な状況から奇跡的に救出された。
高級炭を産するが事故が多いので牟田部炭鉱の経営は苦しく、坑夫に支払う賃金や米に困り、吉原は借金取りに追われる日々を送る。坑夫が暴動を起こし、事務所が襲撃される。職員の家族は裏山に逃げ、大雨のなか、藪に隠れて一夜を過ごす。吉原は金策に奔走するが、歳末になっても十分な賃金を支払えず、いよいよ妻子を避難させる決心をする。吉原自身は懐に拳銃を隠して出勤していた。牟田部時代が最も苦しい時代だったと、後年、回想している。
牟田部でこれだけの苦労をしても吉原の情熱は衰えず、明治28年(1895年)、杵島(きしま)炭鉱を開拓する。今の佐賀県杵島郡北方町にある。小林秀和、田島信夫ら数名の資産家から出資を受け、経営の全権を吉原が持ち、同時に坑長として現場を指揮した。翌明治29年(1896年)、山口県美祢郡大嶺村に無煙炭を発見。明治30年に試掘と測量をした結果、大炭田を発見。事業化のために奔走する。渋沢栄一を社長として、浅野総一郎、渡辺治右衛門、唐沢恭三、それに吉原が取締役となって長門無煙炭坑(株)を発足させた。吉原は技師長となった。後にこの事業は、鉄道の敷設を含む、あまりに大掛かりなものとなったので、海軍省に譲られた。
炭鉱事業に寄せる吉原の情熱は、明治26年(1893年)、「工学会誌」に寄せた「炭業保護策」という論説によく表現されている。わが国が欧米諸国と伍して行くためには、製造業立国を国の方針とすべきだ。アジア各国から原料を輸入し、製品を世界中に輸出する。加工工業の生み出す付加価値によって富を蓄積する。そのためのエネルギー源が石炭だから、石炭産業振興策を国家として採用すべきだ。具体的には優遇税制、石炭銀行の設置など。いっぽう鉱業家、炭鉱資本家は、国の基幹産業を担う自覚を持たねばならない。乱掘、廉売競争、不正や賄賂の横行、坑夫の安全対策の遅れなど、恥ずべきことが多すぎる。また、事業における技術者の役割を高めるべきである・・・。読めば今でも教えられることが多く、吉原の鉱業家としての烈々たる思いが伝わってくる。
(7)吉原山
現在の唐津市百人町、松浦川を見下ろす高台は「吉原山」と呼ばれている。宮島醤油本社から1キロメートルほどのところである。明治24年から34年間、吉原政道はここに住んだ。吉原はこの高台と住まいをたいそう気に入り、苦労多かった牟田部炭鉱にもここから通った。
唐津湾方面を望む
明治37年、51歳で杵島炭鉱を退職してからは、ここで専ら座禅に精進した。70歳を過ぎてここを去る時、真言宗の僧侶・秋月秀憲にこの山と住居を譲った。寺は鶴林寺というが、秋月は山号を「吉原山鶴林寺」と命名して吉原政道の遺徳を称えた。
(かつて吉原政道が住んでいた。改築されているが、門柱は吉原時代のもの)
耐恒寮の出身者は唐津を離れた後、活躍の場を中央に求める人が多かったが、吉原は故郷に帰って事業を起こした。4歳年下の麻生政包は一貫してエリートコースを歩み、海軍官僚として悠々たる人生を送った。吉原は工学寮への入学に苦労し、在学中も結構たいへんで、やっと安定したかに見えた官僚生活も途中で投げ出した。
そして事業家となり、借金取りに追われながら、地を這うような苦労をして郷土の産業振興に尽くした。「官民格差」という言葉が頭をかすめる。しかし吉原のような気骨の塊りのような人には、そういう人生の方が相応しかったように思える。昭和2年3月17日、75歳で没した。幕末武士の心を持った明治の事業家であった。
参考文献:
- 吉原政道著 「金婚式のかたみ」(末盧国第58-63号(1977―78年)に再録)
- 吉原政道著 「象皮吸挙管新製ノ効用」 工学叢誌 第10巻 489-495頁 (1882年)
- 吉原政道著 「長崎県下高島、中島、端島、松島炭山、福岡県下新入、下境、目尾、鯰田炭山報告」 工学会誌 第63巻 142-188頁 (1887年)
- 吉原政道著 「濠州ニウサウスウェルス石炭山実況」 工学会誌 第74巻 95-111頁 (1888年)
- 吉原政道著 「三池鉱山景況」 工学会誌 第80巻 716-748頁 (1888年)
- 吉原政道著 「炭業保護策」 工学会誌 第140巻 470-476頁 (1893年)
- 大木洋一著 「石炭産業の構造」、 有沢広巳編集 「現代日本産業講座Ⅲ各論Ⅱ エネルギー産業」 第三章 (1960年、岩波書店)
- 「20世紀日本の経済人」 日本経済新聞社編(2000年 日経ビジネス人文庫)
- 「20世紀日本の経済人2」 日本経済新聞社編(2001年 日経ビジネス人文庫)