「去華就実」と郷土の先覚者たち

第23回 吉岡荒太 (下)


今回は吉岡荒太の妻となった鷲山弥生のこと、および結婚後の二人について書きます。


(5)鷲山弥生の生い立ち

鷲山弥生(後の吉岡弥生)は明治4年(1871年)3月、遠州国(今の静岡県)掛川の近郊にある土方村(ひじかたむら)に生まれた。鷲山家は土地の有力者で、代々造り酒屋(本家)と醤油屋(新家)を営んでいたが、地元で漢方医を営む江塚養斎を婿養子として迎えたので、醤油屋を廃業して医者の家となった。妻みせとのあいだに生まれた長女が弥生である。

弥生の父養斎は医者の家に生まれ、漢方医としての修行を積んで開業したが、いっぽうで寺子屋を開いたり、江戸に出て漢学の修行をしたりと、積極的な生き方を志した男である。遊学先の江戸で明治維新と戊辰戦争を体験し、戦乱を逃れて郷里に戻ってからは再び医者として生きた。養斎の診察は医術半分、雑談半分という風で、最新の医学に明るかったわけではないが、村民との信頼関係のうえに医療活動を行った。弥生は後年、「医は仁術」ということを父から学んだと語っている。

弥生は14歳の時、村の小学校を卒業した。裁縫教室にも通い、勉強だけでなく家事もよくできる子だった。自分で蚕を育て、絹糸をつむぎ取り、染色だけは紺屋に出したが、あとの機織(はたおり)、裁断、裁縫は全部自分でして、一枚の着物を作ることができた。家族の着物をたくさん作った。

いっぽう、帝国憲法の制定、議会の選挙など、新しい時代の到来を告げる出来事のなかで、弥生は、村と家からの脱出願望を持つ、血気盛んな少女に成長していった。丈夫な子だったが、18歳の時、珍しく病気になった。その時、熱にうなされて「総理大臣は伊藤博文でなければいけない」、「○○の争議がいけない」などとしきりにうわ言を言うので、周囲は驚いた。

17歳の時、医者になりたいとの願望を父に告げた。反対されたので、父に反抗する冷戦状態に入った。2年後、ついに父が折れ、親族会議が開かれた。既に2人の兄が東京で勉強していたので、そこに世話になる形での上京が許された。明治22年(1889年)4月、18歳の弥生は東京での勉学生活に入った。
 


(6)済生学舎

この時代、医者を目指す人々は、「内務省医術開業試験」という国家試験に合格することが条件であった。多くの人は大学で勉強して国家試験を目指したが、地方出身者にとって、経済的な理由や学力不足のため、大学に入ること自体が困難だった。

明治9年(1876年)、長岡藩出身の長谷川泰(はせがわやすし)は、大学に行かなくても医者になれるルートを確保するために、東京本郷に「済生学舎」を設立した。入学試験も卒業試験もなく、授業料を支払えば誰でも入学して受講できる。講義の多くは大学の教師による出張授業であった。医術開業国家試験に合格した時が卒業で、合格するまで何年でも在籍できるという、ユニークな学校だった。現在の大学受験予備校と似ている。

長谷川泰
『幕末・明治・大正回顧八十年史 第17輯』
(国立国会図書館ウェブサイトより)

大学が女性に門戸を開いていなかったこの時代、済生学舎も同様だった。明治17年(1884年)、わが国における女医の草分けの一人である高橋瑞子(たかはしみずこ)は三日三晩、本郷の校門前に立って入学許可を訴えた。舎長の長谷川泰はその熱意に押されて彼女の入学を認めた。高橋瑞子は文字通り体当たりで新しい時代の扉をこじ開けたと言える。小学校しか出ていない弥生が医者への道を歩むことができたのは、こうした先輩の努力があったればこそである。

明治22年(1889年)、弥生は済生学舎に入った。高橋瑞子はもう卒業していたが、15人ほどの女子学生がいた。弥生は自分で織った綾織りの羽織を着て通学した。朝6時に始まる授業に出て夜は遅くまでという、猛烈な勉強ぶりだった。まだ女子学生が珍しかった時代で、男子学生の冷やかしや悪質ないたずらが絶えなかった。勝気な弥生は「女医学生懇談会」を組織してこれらに反撃したり、講堂で演説したりと、どこへ行ってもリーダー格であった。明治23年(1890年)5月には早くも国家試験の前期に合格した。前期試験合格記念に、級友3人と向島堤の料亭で豪遊するなど、若い女性とは思えない豪胆ぶりを発揮した。明治25年(1892年)10月、ついに後期試験にも合格し、22歳の医師・鷲山弥生が誕生した。


(7)東京至誠医院の設立

弥生はしばらく郷里に帰って父の医院を手伝ったりしたが、ドイツ留学の希望を持って、明治28年(1895年)、再び上京した。こうして吉岡荒太と出会うことになった。結婚後しばらくは夫の事業を手伝うことを生活の中心に置いたが、病気がちな夫の稼ぎだけでは苦しいので、明治30年(1897年)、飯田町4丁目に再び医院を開業した。夫の経営する学園の名前を貰って、「東京至誠医院」の看板を掲げた。女医・吉岡弥生としての社会活動の再開であった。

荒太が院長を務める東京至誠学院は借金をしながらも活動していたが、講義、執筆、翻訳と多忙を極める中で荒太の健康は衰えた。明治32年(1899年)、夫を診察した弥生は、糖尿病が深く進行していることに驚いた。このうえは治療を最優先すべきと主張し、学院は閉鎖された。このとき以来、元気満々の弥生が事業の先頭に立ち、病身の荒太がそれを蔭で支えるという、夫婦の役割分担が確立した。


(8)東京女医学校の開校

明治33年(1900年)、弥生がかつて学んだ済生学舎は、女子生徒の入学を許可しないという決定を下した。男女間の風紀の乱れによる学園の混乱を、女子を締め出すという、一方的で安易な方法で解決したのである。様々な事情で大学に行けない女性たちにとって、済生学舎は唯一の教育機関だったので、この女性たちは行き場がなくなった。弥生はこの人たちを救いたいと思った。

男女共学がよいか別学がよいかという議論は、今も時々行われる。医学教育の場合、実習では学生が順番で患者役となって、様々な模擬診察や模擬治療を受ける。大勢の男子学生の前で女子学生が身体をさらすことの辛さを弥生は体験してきたので、かねてから、女子だけの医学教育の場を作りたいと考えていた。この考えを荒太に伝えると、荒太は即座に賛成した。明治33年(1900年)、二人は至誠医院の一室に「東京女医学校」の看板を掲げた。

わが国初の女医学校の誕生であり、また、第二世界大戦後に至る長いあいだ、わが国における唯一の女医養成機関であった。初年度の生徒は4人だったが、入学者はしだいに増え、市ヶ谷仲之町、次いで河田町に専用の校舎を建てた。

根っからの教育者である荒太は、女医学校の事業に最後の情熱を燃やした。校長である弥生が対外的な活動を一手に引き受けたが、弥生は女医学校の校長(教師)と至誠医院の院長(医師)を兼務して多忙であった。そのため、女医学校内部では、荒太の存在がむしろ大きかった。教師としてドイツ語と生理学を教え、学校経営全般を指揮した。それだけでなく、仲之町時代は、寄宿舎の監督として約10年間、校舎で学生たちと寝食を共にした。「大先生(おおせんせい)」と呼ばれ、実の父親のように慕われた。

明治45年(1912年)、東京女医学校は専門学校の認定を受けて東京女子医学専門学校(東京女子医専)となり、こんにちの東京女子医科大学へと発展した。

東京女子医学専門学校
『東京女子医学専門学校一覧』
(国立国会図書館ウェブサイトより)

(9)荒太の最期と、その後のこと

糖尿病をしだいに悪化させた荒太は、大正11年(1922年)10月、55歳で死亡した。ずっと病気がちだった荒太としては、よく生きたと言えるだろう。教え子たちの強い希望により、東京女子医専の大講堂で学生たちだけによる通夜が行われた。次いで芝の増上寺に1700人が集って盛大な葬儀が営まれた。

地元からの要請で、郷里高串でも葬儀が営まれた。貧しい寒村から出て社会貢献を果たした荒太に対する人々の尊敬の念は深く、この日は村じゅうの人が仕事を休んだ。遺骨を携えた弥生ら遺族を、三隻の船が伊万里まで迎えに出て、高串港に着くと吉岡の生家までの道を人垣が埋め、遺骨に頭を垂れた。葬儀は小学校の運動場で行われ、3000人が集う一大行事となった。

荒太亡き後の吉岡弥生は、医師、教師、病院経営者、そして学校経営者という役回りを一人でこなさねばならなかった。病院と学校は共に関東大震災(大正12年、1923年)の被害を受けた。これらの困難にくじけず、弥生は重責を果たし、医学、教育の世界において女性の力を見事なまでに実証した。後にドイツ留学から帰った吉岡正明(荒太の末弟)が副校長兼総務部長に就任し、荒太と弥生の息子博人も事業に加わった。弥生は長生きし、昭和34年(1959年)、88歳で亡くなった。
 吉岡荒太と弥生は、夫婦協力してかずかずの事業を成し遂げた。共に地方から出て、貧しさ、病気、性による差別などで苦労した経験をもつゆえに、事業のすべてが、社会的弱者への思いやりに満ちていた。元気いっぱいに表舞台で活躍する弥生と、それを蔭で励まし支える病身の荒太は、美しい夫婦愛の姿として人々の記憶に刻まれている。男尊女卑の風潮が根強かった明治の時代に、極めて独創的な生き方をした二人だった。

高串にある吉岡荒太・弥生の墓
(2003年9月)

吉岡荒太・弥生の墓付近から
望む高串漁港(2003年9月)

参考文献:

  • 吉岡弥生口述、神埼清著 「吉岡弥生伝」(1941年、東京連合婦人会出版部発行)(1989年、大空社伝記叢書57として復刻出版された。)
  • 吉岡弥生口述、神埼清著 「吉岡弥生伝」(シリーズ人間の記録63 吉岡弥生)(1998年、日本図書センター)