「去華就実」と郷土の先覚者たち

第10回 麻生政包


耐恒寮第一期生の一人である麻生政包(あそうまさかね)は、鉱山技術者としてわが国の石炭事業の開拓期に先駆的な足跡を残した。各地の炭鉱の開発に従事し、エネルギー供給という面から明治期の国力発展を支えた。特に、発明からまだ日の浅かったダイナマイトを、わが国で最初に鉱山に応用した人として歴史に名をとどめている。

麻生政包(明治30年代)

(1)少年時代・東京への旅

麻生政包は安政4年(1857年)、唐津藩士、麻生芳助(あそうほうすけ)の長男として唐津城下に生まれた。藩士の子供のための教育機関として藩校志道館があったが、下級武士の子だった政包はそこに行かず、私塾に通った。大名小路に住む野辺英輔(のべえいすけ)が、藩校で学ぶことのできない子供たちのために私邸で開いていた塾である。

明治3年(1870年)に英学塾耐恒寮が開かれると、そこに入学した。まだ13歳、掛下重次郎と同年であった。20歳の曽禰達蔵、18歳の辰野金吾らに比べれば、ずいぶん幼かった。それでも、高橋是清の上京に同行した曽禰らより1年遅れて、明治5年(1872年)の秋10月、辰野金吾、吉原政道、竹林峰松と共に、4人で東京に向った。

この旅のことは、後年、吉原が詳細に記している。唐津から歩いて博多に出て、そこから小型汽船に乗って大阪に上陸し、陸路東海道五十三次を歩いて横浜に至り、横浜からはできたばかりの汽車に乗って東京(新橋)に乗り込んでいる。

東海道を徒歩での道中は、木賃宿に泊まり、昼は一膳飯や焼芋で済ますという倹約ぶりであったが、向学心に燃える若い彼らのことゆえ、見る物すべてが珍しく、ずいぶん楽しい旅でもあったと記されている。とりわけ15歳の麻生にとっては、毎日が冒険であったことだろう。

横浜-新橋間の鉄道はこの年、開通したばかりだった。当時、汽車は危険だという噂が伝わっていた。汽車に乗るとあまりの速さに眼が回るという。それに、貧しい彼らにとっては切符も安くはなかったことだろう。しかし恐る恐る、びくびくしながらも好奇心に衝き動かされて乗ったという。また、汽車の運転は非常に危険で、未熟な日本人には無理だというので、運転手は外国人ばかりであったという。


(2)工学寮・工部大学校

明治6年(1873年)4月、工学寮(東京大学工学部の前身)の第一回入学試験が行われた。耐恒寮の生徒たちはこぞって受験したが、曽禰達蔵と麻生政包の二人だけが官費生として合格し、入寮した。ずいぶん年長の面々に混じって受験し、立派に合格するのだから、かなりの秀才であったことが伺われる。連載の第7回で記したように、辰野金吾はこの第一回試験に合格していない。

工学寮は虎ノ門、琴平神社近くの旧延岡藩邸に設置された。現在の文部科学省の裏、会計検査院のあたりである。教師は英国人を中心に、外国人ばかりであった。数学の教師はマーシャル、理化はベレー、化学はダイウベル、鉱山学と地質学はミルン、製図はモンデーといった名が記録されている。発足時の工部卿は伊藤博文、工部大輔は山尾庸三、工学寮長官は大鳥圭介であった。

入寮した麻生は鉱山学科に進学する。明治10年(1877年)、工学寮は工部大学校と改称される。麻生は明治12年(1879年)、工部大学校の第一回卒業生となった。東京大学工学部は今日まで何万人もの卒業生を送り出しているが、その最初の卒業生である。その意味で卒業証書と学位認許も記念すべきものなので、この連載用に撮影させていただいた。

工部大学校第一回卒業証書(明治12年)

上の卒業証書には、教頭としてヘンリー・ダイエル(Henry Dyer)、工部大書記官として大鳥圭介、工部卿として山田顕義(日本大学の創始者)の名がある。下の学位認許は、明治20年(1887年)に帝国大学(のちの東京大学)が発足した時のものである。この年、帝国大学では、工部大学校など、その前身の卒業生にも学士称号を発行することにした。麻生は「元工部大学校卒業生」と記されている。

学士称号認許(明治20年)

(3)ダイナマイト研究

麻生は卒業と同時に工部省に勤務する。最初の仕事は福岡県鉱山監督局の技手として九州の炭鉱開発を担うことであった。大牟田の三池鉱山を本拠地として、九州各地で調査、試掘、監督の業務にあたっている。

若き日の麻生の仕事のなかで、非常に明瞭な形で残っているのは、ダイナマイトの応用に関する研究である。ダイナマイトはスウェーデンのアルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel)が1867年に発明した実用爆薬である。当時、鉱山やトンネル掘削において、堅い岩盤を砕くのに、主として黒色火薬が用いられていた。しかし黒色火薬は僅かな刺激で爆発するので、誤爆による事故が絶えなかった。また、爆発後に有害ガスを発生するので、鉱山やトンネル工事においては、中毒事故も多く発生した。ニトログリセリンという有機液体が強力な爆発力を持っていることは知られていたが、これは黒色火薬よりも更に小さな刺激で爆発するので、実用化は困難であった。ノーベルの発明は、このニトログリセリンを珪藻土(けいそうど)に沁みこませて整型することにより、安全に取り扱える強力な実用爆薬を実現したことだった。

ノーベル社のダイナマイトは明治12年(1879年)、わが国に初めて輸入された。起爆用の雷管は、英国のグラスゴー・ノーベル社とドイツのハンブルク・ノーベル社製のものであったようだ。三池鉱山の指導にあたっていた麻生は、これらを早速入手し、文献上の調査と実地試験を行ったうえで、それを「工学叢誌」第1巻 第7号に発表した。明治14年(1881年)6月号に掲載され、「『ダイナマイト』用法 麻生政包」とある。24歳の時である。その要点は以下のようなものである。

雷管(起爆装置)を使って起爆した時のダイナマイトの爆破力は、従来の火薬に比べて非常に大きい。しかしマッチで火を点けるなど、普通の扱いにおいては爆発せず、ただ燃えるだけである。このため、安全性と爆破力が両立している。
爆発後の有害ガスが発生しない。
いっぱんに鉱山やトンネル掘削にかかるコストは、火薬そのものの代価よりは、火薬を埋めこむ穴(発破孔)を岩にうがつ際の労力とコストの方が大きい。ダイナマイトを使えば必要な発破孔の数が少なくて済み、また、孔の直径も小さくてよいから、労力とコストが著しく削減される。
使用法を工夫すれば、堅い岩盤の爆破だけでなく、柔らかい岩、亀裂の入った岩、濡れた岩などにも有効に使える。

これらの解説に続いて、具体的な使用法、安全のための留意点などが、図解を交えて丁寧に書かれている。ノーベルの発明から14年後、欧州では既に鉱山で用いられていたようだが、わが国では麻生のこの研究報告が、ダイナマイトを産業用に用いた最初の記録とされている。読み返してみると、「学術論文」という水準のものではないが、若き鉱山技術者が、炭鉱の安全な操業と生産性向上という課題に向き合っている姿が浮かぶ。これ以後、九州はじめ日本各地の炭鉱においてダイナマイトが活用され、わが国の国力を支えるエネルギー供給能力は増大する。


(4)初期九州炭田における経営主体

当時、九州の炭鉱の経営主体はさまざまで、いろんな変遷もあった。大牟田の三池鉱山は明治初期、工部省管轄の官営鉱山として出発したが、のち大蔵省管轄に移り、明治22年(1889年)には民間への払い下げが決まった。入札の結果、三井のものとなり、財閥経営の炭鉱として再出発した。

いっぽう、唐津地方では幕末から炭鉱開発が進み、唐津藩だけでなく周辺雄藩や幕府が炭鉱を経営していた。これらの炭鉱(ヤマ)は御領山(幕府直営)、薩摩山、肥後山、筑後山(久留米山)などと呼ばれていた。明治6-7年(1873-74年)、薩摩藩が唐津地区に所有していた鉱山を海軍省に譲渡したので、海軍省は松浦川の河口に「唐津海軍石炭用所」を設置した。明治10年ごろの資料では、唐津の出炭量の15%ほどが海軍御用炭としてここに納められた。この「石炭用所」というのは全国でも他に例がない。海軍は、主として軍艦の動力源確保のための石炭備蓄基地として位置付けていたようだ。海軍御用以外の旧藩営鉱山は地元有力者に払い下げられ、その中から高取伊好(たかとりこれよし)などの炭鉱資本家が形成されて行った。

唐津炭田の採炭風景

(5) 鉱山技術の指導者として

三池鉱山の経営が三井資本に移るころ、麻生は三池から遠ざかっている。明治20年に工部省から海軍省に移り、以後は主として「海軍二等技手 石炭調査委員」という肩書きで仕事をしている。工部省時代から引続く仕事として、各地の炭鉱や候補地を回って調査や試掘をしているが、その範囲は九州だけでなく、茨城、青森、北海道へと広がっている。

日本石炭試験成績表の下書き
(明治20年ごろ)

麻生が残したノートを見ると、地層の観測、埋蔵量の推定、石炭の化学組成の分析、燃焼エネルギーの測定といった理学的、技術的な研究があるいっぽう、新たに鉱山を興す場合に必要な設備のリスト、その費用の見積り(起業予算書)など、経営的な仕事もある。軍艦の運転試験結果の報告などもある。麻生のメモには、これらの内容がしっかりした毛筆で、和紙でできた海軍省の罫紙にしたためられている。

麻生自身が新しい炭鉱を開拓した例として、長崎県の香焼島(こうやぎじま)炭鉱と北海道の文殊炭鉱が知られている。また、後にわが国最大の炭鉱群となる筑豊炭田の発展に尽くした功績も大きく、炭鉱主であった貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎らは、麻生政包を技術顧問として、常に頼りにしたと言われている。

麻生の海軍省時代のメモは、唐津出身の海軍中将、松下東治郎(大正天皇侍従武官)によって保管され、孫の麻生博之氏に伝えられた。政包の娘ヨシが松下東治郎に嫁いだ縁もあって、松下が戦火を避けて保管したものである。
 


(6)大正3年正月の写真

大正3年(1914年)の正月、麻生は例年になく、唐津城内二の門にあった自宅の庭でギン夫人と二人で記念撮影をしようと言い出した。数え年58の正月であった。きちんと正装し、できた写真には表紙をつけて、「大正三年一月 写真に題す。 五十路あまる八とせの春を 我が庭にむかへてかはす姿なりけり 政包」と達筆でしたためた。こんなことはかつてなかった。そしてこの年の8月28日にこの世を去った。鉱山技術者としての仕事はもちろん立派だったが、自らの肉体についてもきちんと事態を把握し、冷静に準備を整えて終止符を打ったかのように見える。武士の子らしい折り目正しさである。

麻生政包・ギン夫妻
(大正3年正月、唐津市城内二の門の自宅)

政包自筆による写真解題

各地の炭鉱を飛び回り、調査研究と技術指導に奔走する麻生だったので、妻ギンは留守宅を預かることが多かった。茶の湯と唐津焼の趣味を楽しんだ。また、家事や家庭農園について、こと細かに記録したものが残されている。みかんの煮方、芋、ブロッコリーなど野菜の育て方、百合の種類とその育て方、一年の種まきスケジュールなど、当時の中流階級の夫人の生活を知るうえで貴重な資料である。


今月号を執筆するにあたって、麻生政包のお孫さんである麻生博之さんと順子夫人を唐津市大名小路のご自宅に訪ねた。故人の残された写真、卒業証書、石炭と鉱山技術に関する沢山の自筆メモ、ギン夫人の残された家事に関する記録など、数々の貴重な、そして興味尽きない資料を閲覧させていただいた。また、その一部を電子化して保存、公表することを許していただいた。なお、麻生政包の生涯と業績については、これまで、松浦史談会の富岡行昌さんによって発掘された部分が多い。本文で紹介した「『ダイナマイト』用法」の原文も、富岡さんが入手してくださったものである。これらの方々に、ホームページ制作者一同、感謝いたします。


参考文献:

  • 麻生政包著 「『ダイナマイト』用法」 工学叢誌 第1巻 第7号(1881年)
  • 富岡行昌著 「唐津の麻生政包 終生を炭鉱開発」(末盧国第78号、1985年)
  • 大木洋一著 「石炭産業の構造」、有沢広巳編集「現代日本産業講座Ⅲ 各論Ⅱ エネルギー産業」 第三章(1960年、岩波書店)
  • 井手以誠著 「佐賀県石炭史」(1972年、金華堂)
  • 坪内安衛著 「石炭産業の史的展開」(1999年、文献出版)
  • 吉原政道著 「金婚式のかたみ」(末盧国第58-63号(1977―78年)に再録)