「去華就実」と郷土の先覚者たち

第12回 大島小太郎


耐恒寮第一期生の一人である大島小太郎(おおしまこたろう)は、東京で学んだ後、若くして故郷唐津に帰り、地元経済界の指導者として佐賀銀行の前身である唐津銀行を創立した。また、唐津と佐賀・博多・伊万里を結ぶ鉄道(現在のJR唐津線・筑肥線)や道路の敷設、市街地の電化、唐津港の整備など、地域産業の振興と郷土の近代化に大きな足跡を残した。

大島小太郎
『佐賀銀行百年史』より

(1)父と子

父・大島興義(おきよし)は、幕末唐津藩の御金奉行兼元方といって、藩財政を統括していた重臣である。耐恒寮の生徒の多くは下級武士階級の出身だったが、大島の父は上級武士で、小太郎はその長男だった。

明治4年(1871年)に耐恒寮ができた時、入学して高橋是清の指導を受けるが、まだ11歳だったから、最も若い世代に属した。大島は耐恒寮を卒業後、東京に出て、二松学舎、三菱商業学校で学んだ。耐恒寮の生徒の多くは、学業を終えた後も東京はじめ各地に働きの場を求めたが、大島は卒業後まもなく唐津に帰国した。眼をわずらったためとも言われるが、それよりも父興義の影響が大きかったと思われる。

大島興義は幕末唐津藩の財政を掌握していたので、廃藩置県や諸制度改廃にともなう移行実務や小笠原家の財産処分を一手に引き受けていた。また、その地位を活用して、明治初期の地元経済界を指導していた。例えば和紙の販売は唐津藩の専売事業だったが、興義はこれを引き継いで和紙販売会社を経営していた。「武家の商法」とは商売の下手な武士について言われる言葉だが、興義の場合はかつての地位を活用し、実業家として巧みに新時代に適合した。小太郎はそういう父の後継者として生きる道を選んだ。


(2)魚会舎の再建

大島小太郎が東京から帰国した時、唐津地方の経済は沈滞していた。小太郎には、地元の活性化を担う若きリーダーとしての期待が集まる。小太郎は郷土の産業振興プランを考える中で、まず唐津港の将来性に着目した。水産、製紙、炭鉱など、地場の有望産業を育てるうえでも、先ず水揚げ基地・輸送基地としての唐津港を整備することが重要だと考えた。

もともと唐津藩は魚類の水揚げと販売を監督する部署として「浦方役所」というものを持っていたが、廃藩置県によって消滅した。父・興義は共に唐津藩の重臣であった草場三右衛門と協力して、明治6年(1873年)、唐津魚市場の原型となる「魚会舎」という組合を設立していた。しかし翌年、佐賀の乱が起こった。江藤新平らが、明治政府に反抗する士族をまとめ、佐賀の地で起こした反乱である。徳川幕府のもとで唐津藩と佐賀藩は別藩だったが、このころには佐賀県として合体していた。この内乱を鎮圧した明治政府は、佐賀県に対して様々な制裁措置を加えた。佐賀県を廃止して三潴県(みずまけん。今の福岡県の一部)の一部とし、次いで長崎県に吸収させた。県内企業に対しては営業制限を課した。加えて数度の暴風災害によって、魚会舎の経営は苦しくなった。

魚会舎は明治16年(1883年)、ついに倒産寸前にまで追い込まれた。そこで大島興義は、帰国した息子・小太郎に再建を託す。小太郎は縦横に腕を振るって会社再建を軌道に乗せ、声望を高めた。


(3)唐津銀行の設立

魚会舎は、漁業者に対する小口の融資に端を発した貸金部門を持っていた。しかし回収がままならず、この部門は会社全体の足を引っ張る存在だった。再建の過程で、小太郎はこの部門を整理して魚会舎から切り離し、ここを母体とする地元銀行の設立を企画する。

石炭を中心とする海外貿易など、唐津港を国際貿易港として発展させるためには、それを担う地元企業を育てる必要があった。三菱商業学校で学んだ小太郎にとって、本格的な金融機関の設立は急務と思えた。この企画は地元有力者の賛同を呼び、明治18年(1885年)、唐津銀行が発足した。弱冠26歳の小太郎が頭取に就任した。豪商が集まっていた大石町(大字唐津182番地)に本店を開いた。

創立当時の唐津銀行本店
『佐賀銀行百年史』より

大島小太郎頭取
『佐賀県商工名鑑』より

やや余談になるが、唐津くんちの主役である14台の曳山のうち、大石町の鳳凰丸(ほうおうまる)は最も豪華で、重量も最大である。この曳山は弘化3年(1846年)に作られたが、当時の豪商たちがその権勢を誇示すると共に、この豪勢な宝船に彼らの理想を込めたのだと言われる。大石恵比寿様のある四つ角が、江戸時代から明治初期にかけて、唐津随一の繁華街だった。

明治45年(1912年)、唐津銀行本店は、大石町から本町に新築移転した。このとき、辰野金吾監修、田中実設計による、記念碑的な本店建物が完成した。(この建物については、本シリーズ第7回「辰野金吾」を参照してください。)

唐津銀行は大正期から昭和初期にかけて、糸島銀行(福岡県前原市)、相互銀行(唐津市)、栄銀行(佐賀市)などを次々に吸収合併して規模を拡大し、佐賀県内最大の銀行となる。次いで昭和6年(1931年)、西海商業銀行と合併し、佐賀中央銀行となる。小太郎が初代頭取となった。

旧唐津銀行本店

佐賀県内には、小太郎の経営する佐賀中央銀行とは別に、明治15年(1882年)に開業した伊万里銀行が母体となって成長してきた佐賀興業銀行があった。第二次大戦後の昭和30年(1955年)、この二行が経営統合して、現在の佐賀銀行が生まれた。


(4)鉄道の敷設

小太郎らの熱心な運動が実って、唐津港は明治22年(1889年)、国の特別輸出港に指定された。輸出品の中心を占める石炭は、従来、内陸の産炭地から松浦川を「ひらた舟」(帆掛け舟)に載せて唐津港まで運ぶのが常であった。これではいかにも輸送力に乏しいが、松浦川は水深が浅いので近代的な蒸気船は使えない。そこでいよいよ鉄道敷設の気運が高まってきた。明治20年(1887年)に私設鉄道条例が公布され、既に全国各地で私鉄会社が設立され始めていた。

明治27年(1894年)、唐津銀行の大島小太郎頭取、同役員であった草場猪之吉、平松定兵衛らは、本格的な鉄道敷設運動を起こした。唐津の地方経済は急速に成長しようとしていた。そうした時代の熱気を伝える話が、鉄道建設の事業にはある。中町高徳寺に生まれ、住職の娘であった奥村五百子(おくむらいほこ)は明治期を代表する社会運動家だが、鉄道敷設の運動にあたっては自ら株主となって運動に奔走し、人々を大いに激励した。東松浦郡長であった加藤海蔵は鉄道敷設運動に専念するために、あえて郡長の公職を辞した。加藤は大阪での行政経験があったので、大阪の金融資本家たちの出資をとりつけた。近郊の炭鉱家たちも争いを超えて協力した。

明治29年(1896年)、唐津興業鉄道株式会社が設立された。専務取締役に加藤海蔵、取締役には大島小太郎ら地元資本家と石崎喜兵衛ら大阪資本家が名を連ねた。大株主及び経営陣には大島小太郎、草場猪之吉など唐津銀行役員、高取伊好、古賀善兵衛など炭鉱資本家、醤油醸造屋の七世宮島傳兵衛などがいた。工事は厳木町(きゅうらぎまち)からスタートし、3年後の明治32年(1899年)、唐津妙見駅(今の西唐津駅)までの線路が繋がった。こうして、内陸の炭田地帯と唐津港を結ぶ近代的陸送路が完成した。民間の力で、しかも地元の人々から起こった運動によって、3年間で鉄道を完成させたこの事業は、唐津の産業史における大きな出来事だった。

鉄道の完成により、唐津港は急速な繁栄を見せる。大正3年(1914年)にパナマ運河が開通したが、この運河を通って最初に日本に来航した西洋船は英国のボルトンキャッスル号、第二船は同じ英国のエヴァナ号だったと記録されている。両船とも、太平洋を渡って最初に寄港した港が唐津港であり、そこで石炭を積んで上海やマニラに向った。昭和元年(1926年)の1年間に、唐津港には343隻の外国船が寄港したという記録もあり、パナマ運河を通って日本に向った船の3分の1が唐津港に入港したとも言われている。

唐津興業鉄道は明治36年(1903年)には長崎本線とつながった。このころ、同社は地元企業という性格をしだいに失い、全国版の経済に巻き込まれてゆく。北浜銀行、阪神電鉄、貝島鉱業が相次いで大規模な資本投下をし、次いで明治40年(1907年)に制定された鉄道国有化法によって日本国有鉄道(JNR)に組み込まれた。唐津地方の炭鉱へも、三井、三菱、貝島らによる財閥支配が進んだ。これらは日本資本主義経済の歩みをそのまま反映している。鉄道自体は昭和62年(1987年)に再び民営化されて今の九州旅客鉄道(JR九州)唐津線となった。

いっぽう、福岡方面への鉄道敷設は難航した。まず奥村五百子らの奮闘により明治29年(1896年)に木製の松浦橋が完成し、浜崎からこれを渡って唐津市街に至る馬車鉄道が運行された。草場猪之吉、岸川善太郎らは大正8年(1919年)に北九州鉄道株式会社を作って汽車鉄道の完成を目指すが、浜崎・福吉間のトンネルなどたいへんな難工事が相次ぎ、やっと昭和10年(1935年)に伊万里・東唐津・博多を結ぶ鉄道(筑肥線)が完成した。16年もの歳月をかけた大事業だった。唐津経済の発展を支える二つの鉄道建設運動を常にリードし、小太郎の協力者・理解者でもあった草場猪之吉は、昭和5年(1930年)、筑肥線の完成を見ずに死亡した。東京に出張して資金調達に奔走していた旅先でのことであった。

二つの鉄道が地元経済と文化の発展に果たした役割は量り知れない。特に銘記したいことは、これらが共に国の事業としてではなく、民間事業として企画され、地域の人々の努力によって実現したということである。JR唐津駅の北口広場に、鶴が舞う彫刻があるが、その台座に、4人の肖像のレリーフが埋めこまれている。鉄道建設に献身した有名無名の人々を代表する4人であり、唐津市民が決して忘れてはならない恩人である。

鉄道建設の功労を称えて唐津駅北口広場に作られたレリーフ像。左より草場猪之吉、大島小太郎、岸川善太郎、平松定兵衛の各氏。

(5)市街地の電化と電気製鋼事業

明治41年(1908年)、小太郎は自ら社長となって唐津電灯株式会社を設立し、郷土に初めて電気をもたらす事業に着手する。今の唐津市船宮町に石炭を用いた火力発電所を作るべく、建設工事に着工する。明治43年(1910年)には60キロワット火力発電機2基が稼動、開業した。この年の6月1日は、唐津の街に電灯が灯った記念すべき日となった。

小太郎は次いで西唐津に、当時の先端産業であった電気製鋼所を建設する。唐津電気製鋼株式会社は大正6年(1917年)、小太郎を社長として発足した。県内の有力実業家や銀行主に呼びかけて株式を募り、資本金50万円の近代的な株式会社であった。最盛期の大正8年(1919年)には従業員200人以上を数え、西唐津駅に隣接した3500坪の土地に850坪の工場を擁した。転炉、熔銑炉を持ち、鋳鋼、鍛鋼、鋼塊その他特殊鋼を作り、これを素材にして鉄道線路と車輌材、船体、船具、各種歯車、発電機材など多種多様の製品を作った。品質が優れていたので、満州鉄道、三井鉱山など有力な得意先を獲得し、海軍佐世保工廠の指定工場にもなった。東京、大阪、大連(中国遼寧省)に代理店を置いた。

唐津電気製鋼工場に隣接する地に唐津鐵工所があった。明治42年(1909年)に芳谷炭鉱(株)唐津鐵工所として創設され、大正5年(1916年)に独立して(株)唐津鐵工所となった。こちらの経営に小太郎は関与していないが、唐津鐵工所はわが国を代表する精密工作機械工場として高い評価を得ていた。こうして大正時代の西唐津(唐津港)は、石炭の輸出港としてのみならず、金属加工工業の拠点として全国にその名を知られることとなる。唐津電気製鋼工場は後に閉鎖されたが、唐津鐵工所は今も唐津を代表する伝統企業として健在である。


(6)最後の大仕事

郷土の発展のため、金融、工業、運輸、教育という幅広い分野で小太郎は活躍した。実業家としての力量は卓越したものだった。しかし当然ながら、事業には苦しい時期もある。佐賀中央銀行は昭和6年(1931年)に発足し、比較的順調な滑り出しだったが、世界恐慌を経て第二次世界大戦へと向う情勢のなかで業績は次第に悪化し、昭和11年(1936年)にはついに無配当(赤字)に転落した。既に77歳になっていた小太郎にとって、この再建が最後の大仕事となった。経営再建のため、佐賀中央銀行は資産の売却、預金の増強、不良債権の整理、諸経費の節約に努めた。翌年より、常勤役員の給与を1割削減し、頭取である小太郎自身はすべての報酬を辞退した。再建は長期戦となった。昭和16年(1941年)には日本銀行より佐治仲太郎を専務取締役に迎え、いっそうのテコ入れをした。

行員と役員の努力によって昭和17年(1942年)7月、佐賀中央銀行はついに配当を回復した。このかん、赤字銀行の経営者として4年5ヶ月のあいだ、小太郎は一円の給与も受け取らなかった。そして配当を回復したこの月、頭取を佐治に譲って引退した。

頭取を辞して5年後、大島小太郎は死去した。88歳であった。郷土の発展のために捧げた生涯だったと言えるだろう。


(7)大島邸

大島興義と小太郎は、唐津市西城内に大きな邸宅を構えて住んでいた。小太郎の没後、いろんな変遷を経て敷地は切り売りされ、現在は志道小学校の南の一帯だけが旧大島邸として唐津市の資産になっている。今もここで、地元の人々による茶会が時々行われている。市によって維持管理されているが、家屋の老朽化を止めることはできず、限界に達している。唐津の発展に大きな貢献をした人の住居だが、取り壊しが検討されている。現在(2002年11月)の姿を以下に紹介する。

玄関(「大島家」の表札がある。)

中庭


参考文献:

  • 「唐津市史」(唐津市史編纂委員会編、1962年)
  • 石井忠天著 「明治・大正の唐津」(1977年、唐津商工会議所)
  • 「佐賀銀行百年史」(佐賀銀行編、1982年)
  • 東定宣昌著 「唐津海軍炭坑の設定とその経営」 経済学研究 第59巻、81-109頁(1994年、九州大学経済学会)
  • 東定宣昌著 「唐津炭田の輸送体系の近代化―唐津興業鉄道会社の成立と石炭輸送―」比較社会文化 第1巻、49-60頁(1995年)
  • 「てっこうしょのことども ―社史・前編―」((株)唐津鐵工所編、2002年)