「去華就実」と郷土の先覚者たち

第29回 黒田チカ (上)


黒田チカは我が国初の女性化学者と言われる。帝国大学に入学した最初の女性であり、化学の分野で顕著な業績を残した。特に紫根、紅花、ウニなどの持つ天然色素の研究に従事し、それらを単独の物質として取り出し、その分子構造を決定した。またその一部を工業的に生産する道をも開いた。化学分野で女性初の理学博士となり、数々の学術賞を受賞した。教育者としては、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)において、初の女性教授となった。科学者としての純粋で真摯な生き方は人々の尊敬を集め、明治、大正、昭和の三代にわたり、自然科学を志す女性たちの目標であった。

黒田チカ
(写真提供:黒田家)

(1)生い立ち

黒田チカは明治17年(1884年)佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)に生まれた。父親の黒田平八は佐賀藩諫早邑の藩士であり、母トクとの間に生まれた三女であった。女性に学問をつけることは一般的でなかった時代だが、父平八は非常に進歩的な考えを持っており、男女を問わず子どもたちに十分な勉学の機会を与えた。チカも恵まれた環境の中で勧興小学校から佐賀師範学校女子部へと進み、17歳の時に卒業した。学校の規則に従って一年間、佐賀郡川副高等小学校の教師を務めた。次いで明治35年(1902年)東京に出て、当時の女性としての最高学府である女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)理科に進学した。


(2)女子高等師範学校

黒田はもともと文科にも興味があったので、女子高等師範(女高師)を受験するにあたって、どの分野を選ぶか迷った。文科の学問は独学でもできそうだが、理科の実験は学校でなければできないと考えて、理科を選んだ。在学中、平田敏雄教授の指導を受けるうち、しだいに化学の楽しさに夢中になった。特に酒石酸(しゅせきさん)の光学異性体などに見られる立体化学の現象に惹かれた。光学異性体とは、右手と左手のように、互いに鏡に映った映像の形をした一対を言う。このような一対が、分子の世界にもあるのである。また、染料や顔料の化学、染色の原理などにも興味を持った。明治39年(1906年)に卒業した。

女高師での勉学を通じて、黒田は化学に対する情熱を持ち始めていた。しかし当時の女子にとっては、この先へと学歴を積む道は閉ざされていたので、理科教師として福井県立女子師範学校に就職した。福井に行ってみると優秀な教師と生徒たちが揃っていて、そこでの教師生活は活気に満ちたものだった。しかし一年後、母校から呼び出しがかかった。当時、女高師では、女性研究者を育てる試みが始まっており、黒田より3年先輩にあたる理科第一期卒業生の中から、保井コノ(生物学)が第一回研究科生に選ばれて研鑚を始めていた。その2年後、黒田が第二回研究科生として推薦されたのである。黒田は福井での教師生活にも未練があったが、周囲の勧めもあり、明治40年(1907年)、官費研究科生として母校に戻った。

教授の平田敏雄は、黒田に講義の下準備や実験の助手をさせるいっぽう、化学諸分野の教科書を選んで与えた。リヒターの無機化学、ホーンマンの有機化学、ターカーの理論化学、ミューターの分析化学、サットンの定量分析学など、すべて英語の教科書であった。黒田一人のために講義が行われる訳ではないので、独学で学んだ。明治42年(1909年)、昭憲皇后(明治天皇の妃)が女高師を訪問された際、黒田は理科4年生の実験を実演した。こうして2年間の研究科課程を修了し、明治42年(1909年)、東京女子高等師範学校の助教授となった。黒田チカ25歳の時であった。


(3)長井長義との出逢い

黒田チカは東京女高師の助教授時代、長井長義(ながいながよし)という人物に出逢う。このことが黒田の人生を大きく動かすこととなる。

長井長義は弘化2年(1845年)、阿波の国(徳島県)に生まれた。藩医を務める父長井琳章の家に生まれた秀才だったので、父から漢方医学を学ぶいっぽう、慶応2年(1866年)、西洋医学を学ぶために長崎に遊学した。精得館(長崎大学医学部の前身)という医学校でオランダ人教師から医学、物理学、化学などを学んだ。化学実験に魅了されたことがきっかけとなって、長崎在住の写真家上野彦馬の下で写真技術を学んだ。銀の酸化還元反応を制御する技術をここで身につけた。

その後、東京医学校(東京大学医学部の前身)に進み、明治3年(1870年)、第1回欧州派遣留学生に選ばれてプロイセン(ドイツ)に渡った。ベルリン大学に入学し、そこで有機化学の大家、ホフマン教授に出逢う。ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)はベンゼンやアニリンの発見者であり、ホフマン転位と呼ばれるアミン合成法を確立したことでも知られる。英国ロイヤルカレッジの初代化学教授であり、のちベルリン大学に移ってドイツ化学会を創立した。長井はここにおいて、ついに医学から有機化学への転進を決意する。

明治初期の官費留学生は1-2年間の欧州滞在の後、帰国して帝国大学教授など要職に就くのが常だったが、長井はホフマンにすっかり気に入られ、結局13年間、ベルリン大学助手として勤務し、欧州において有機化学の第一線研究者となった。明治17年(1884年)、ドイツ人の妻テレーゼを伴って帰国し、帝国大学薬科大学教授となった。明治20年(1887年)には日本薬学会を設立して会頭となり、以後42年間、会頭職にあった。日本での研究としては、古くから漢方薬として使われてきた「麻黄(マオウ)」からエフェドリン(Ephedrine)を単離抽出して分子構造を決定し、合成法をも確立したことが特筆される。これによってぜんそくなど呼吸器系疾患の治療が格段に進歩した。これらの業績は日本の天然物有機化学と薬学の出発点とされている。

長井は日本女子大学や双葉学園の設立に関わるなど、女子教育にも熱心であった。東京女高師の中川謙二郎校長の熱心な勧誘によって大正元年(1912年)、東京女高師に講師として招聘され、黒田がその実験助手を務めることとなった。国際的に著名な学者のもとで働く機会を得た黒田は、「噂に承ったご風采に親しみと光栄を感じた」、「有機化学の大家に接する喜びがあった」と、若い女性らしい興奮を記している。

長井が黒田に課した実験は、有機化学反応のための試薬作成であった。特に純度の高いシアン化カリウム(青酸カリ)が要求され、そのためには実験室で黄血塩(フェロシアン化カリウム)に希硫酸を注いで新鮮なシアン化水素ガス(青酸ガス)を発生させることも含まれる。このような猛毒を扱う危険な実験を若い女性に任せることに、黒田は非常に驚いた。聞けば長井自身、ドイツで誤ってシアン化水素を吸って気を失い、周囲の人の手で一命をとり留めたことがあるという。

その体験をもとに、長井は黒田に対して実験にあたる者の厳しい心構えと技術を伝授した。黒田は決死の覚悟で課題に立ち向かい、一人前の実験化学者としての技量を次第に高めて行った。後年、黒田は当時を振り返って「周到な注意を要すべき、尊き経験を得さしめんがため、先生がわざわざ真剣な態度にて厳しき実験を課せられたかと思うと、しみじみ印象し、忘れ難い有り難い思い出である」と記している。
 


(4)初の帝国大学女子学生

明治19年(1886年)に東京帝国大学(最初は単に帝国大学と呼ばれた)、明治30年(1897年)に京都帝国大学が設立されたのに続いて、明治40年(1907年)第3の帝国大学として、仙台の地に東北帝国大学が設立された。しかし、これらの帝国大学への入学資格は旧制高等学校卒業生に限るとされ、その高等学校は男子校だったので、帝国大学は自動的に男子のみの大学であった。明治45年になって、政府はようやく、帝国大学入学試験の受験資格を高等工業学校、高等師範学校の卒業生等にまで拡げた。これらの学校からの受験者は「傍系」と呼ばれた。そこで女子高等師範学校の卒業生にも受験資格があるかどうかが問題になった。文部省は女子に入学を許可する考えは持っていなかった。

大正2年(1913年)、東北帝国大学の沢柳政太郎総長は、女子の入学を受け容れる用意があることを表明した。これを知った長井長義は、黒田チカら数名の女性に、東北帝大への願書提出を勧めた。このことが発覚し、新聞等でも取り上げられて話題となった。文部省は東北帝大総長に対して詰問状を送った。これは今も東北大学に保存されている。それによると「元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例の無きことにて、すこぶる重大なる事件に有り」とある。東北大学側は文部省に出頭して事情を説明した。詳細なやり取りは明らかでないが、女子の願書を受け付ける旨、改めて説明したものと思われる。

世間注視のもとで東北帝大を受験することについて、黒田本人は自信がなかった。化学実験に対する黒田の真摯な態度を理解していた長井は「化学は物質を対象としているから、物質に親しまねばならない。その点であなたは大学入試の資格がある。」と励ました。

入学試験は予定通り実施され、東京女高師出身の黒田チカ(化学科)と牧田ラク(数学科)、日本女子師範学校出身の丹下ムメ(化学科)の3人が合格した。特に難関と言われた化学科への入試を突破した者は11人であり、うち2人が女性という快挙であった。こうして東北大学理学部は、我が国の帝国大学で初めて女子学生を受け容れた学部として、永く記憶されることとなった。3人にとっては、世間の注目を一身に浴びながらの大学生活となり、苦労も多かったろうが、大正5年(1916年)そろって卒業し、初の帝国大学女性理学士となった。

(次号に続く)