9区 古河~間々田
競馬場を走ったために一ヵ月空いてしまったが、唐津藩と縁のあった古河宿から出発する。歴史の残る町並みを進んでいると、門の下のわずかな隙間から犬が顔を出して、怪しげなランナーを盛大に見送ってくれた。
こちらは、身体の具合が悪いところに塩を塗れば治るという塩滑地蔵の狛犬だが、石の形がこれほど崩れかけた像は珍しい。参拝者のために親切に塩が置いてあったが、スーパーで売っているパウチ袋入りのもので趣がないのが残念であった。と言いつつ、塩を体に振りかけてお参りをした。
と、この文章を書いていて急に不安になったのだが、塩は自分の身体に塗るのではなくて、この狛犬に塗るのが正しかったのではないか。そうだとしたら、この犬は毎日塩を塗られて撫でまわされ続け、石が風化して崩れつつある、という説明もつくのだが、どうなのだろう。
茨城県を過ぎ、いよいよ栃木県に入る。県境に川が流れているわけでも、山があるわけでもなく、地図で見ると意味不明に曲がりくねっている県境をとにかく越えた。栃木県とはいえ、目的地の宇都宮工場まではまだまだ、けっして近くはない。
街道沿いには墓石屋さんが多く目につく。普通の墓石に交じって、こんなパンダ六重塔とカエル十二重塔があったが、はたしてこれは墓石なのだろうか、誰が何の目的で買うのだろうか。ともかく、これを工場の門柱として使ったら最高だと思うので、ぜひ設置するよう帰ったら工場長に提案する。(冗談です、ご安心を。)
栃木県で最初に通る野木町は、ひまわりを町のシンボルとして栽培しており、夏になると炎天下に一面に咲き誇るひまわり畑の風景が見事だ、ということは知っていたが、11月の今は関係ない。
と思っていたのだが・・・
咲いていた!!!おいおい、いったいどうしたのだ。11月の栃木はかなり冷え込むというのに、季節を間違ってしまったのか。誰の~ために~咲いたの~(ひまわり娘by伊藤咲子)古っ!
宇都宮まで41kmの表示がある。おっ、ついにフルマラソンの距離より短くなったぞ、ここからならひとっ走りで行けるではないか、などという無謀なことは考えず、のんびり進む。
街道から少し離れたところを思川(おもいがわ)が流れているので、寄り道して見に行く。この近くにあった乙女河岸(おとめかし)はかつて水運の重要な拠点であり、江戸から日光への物資は船で北上した後、ここで陸揚げされてから陸路で運ばれたという。また、関ヶ原の戦いの直前、この先の小山にいた徳川家康は、ここ乙女から船で江戸へ戻り、西進して戦いにのぞんでいる。
川幅はそれほど広くないのだが、両側の土手は遠く離れており、その間に広大な土地が拡がっている。大雨が降ればそれだけ氾濫することがあるということなのだろう。よくある、ゴルフ場やグラウンドの河川敷ではなく、自然のままの低木と草が茂っているところが風情があってよろしい。橋の上から眺める思川は、思いのほか雄大であった。
ここは小山市乙女という地区なのだが、この地名が歴史上で知られているのは、先ほどの乙女河岸ともうひとつ、奈良時代から瓦を焼いていた窯の跡がある(乙女不動原瓦窯跡)。ここの瓦が下野薬師寺などの寺院に使われていたということで、今は窯の跡が保存され公園となっている。すぐ横には小山市立博物館があって、そこにも寄り道した。
博物館からは乙女中学校の広い校庭が見えた。少女漫画の舞台にしたら良さそうな、なかなか魅力的な校名だが、この学校に通う男子にしてみれば少々微妙な気分であろう。
今回の終点は、JR間々田(ままだ)駅である。街道を進むにしたがって当然のことながら自宅からは遠くなり、なじみの無い地名になってくる。この駅も、この企画がなければまず降り立つことがなかっただろう。地名の由来は、この宿場が日本橋と日光のちょうど中間にあるから間々田宿となった、ということだが、だったら単純に間宿でいいのに、とつっこむ人もいる。
松尾芭蕉は江戸を発って越谷宿で一泊、二泊目がここ間々田宿だったそうだ。私はといえば、ここまで9区間を要しているので芭蕉の4.5倍のスローペースである。
2011年11月