20区 今市~文挟
日光街道を走り終えた後、私はいったいどこへ向かうのか。そのまま日光の山中奥深く突き進む案もあるのだが、そうすると、今は季節が冬に向かっていることもあって、山で遭難してしまう危険がある。その場合、この連載は「そうなんです。」とあっさり終了することになるが、それはけっこうなこととは言い難いので、勇気をもって引き返すことにしよう。
そもそも江戸時代に日光へお参りしていた将軍の行列は、日光街道を通って日光に着いた後、帰りは少し近道になる壬生(みぶ)通り(日光西街道ともいう)を南下していた。また、江戸の近くでは日光御成道という別ルートを通っていたとのこと。それでは、将軍様と同じルートをたどってお江戸へ帰ろうではないか。
地図を描いて説明するとこの図のようになる。これまで走ってきた道が青色で、これから帰る道が赤と緑。
秋も深まった某日、ちょうど紅葉が見頃とあって日光へ向かう多くの観光客を尻目に、東武日光線下今市駅から逆方向に進み始める私は相当な変わり者である、とあらためて自覚する。
さて、街道を進む前に少し寄り道をして佐賀県人の墓参りをする。今市の市街にある回向庵(えこうあん)には、1868年の戊辰戦争において戦死した土佐藩士10名と佐賀藩士14名を弔った墓がある。土佐や佐賀から遠く栃木まで来て戦い、そして散っていった戦士たちの心中はいかばかりか。栃木と佐賀のつながりはこんなところにもあったのだ。
幕末維新の歴史にそれほど明るくない私は、訪れた土地について学べば学ぶほど、次々とこれまで知らなかった史実に接することになり、毎月が勉強である。佐賀藩の戦士が栃木まで来ていたことを知ったのも驚きなのだが、なんと唐津藩の戦士は函館(当時は箱館)まで転戦しており、さらに驚くのである。いずれは、はるばる函館まで走り続けてみようかと、それは冗談である。
日光街道に続き、ここ日光西街道もしばらくは杉並木が続く。風景が変わらず、これといった見どころも少ない単調な道中でとにかく杉並木の観察をするしかない。
杉の根元に並ぶ勝善神という石碑を見つける。聞いたことのない名前の碑だが、よく見ると動物らしい絵が彫られているのでその関係のものらしい。勝善さんという人のお墓ではなさそうだ。
調べたところ勝善は「かつよし」ではなく、芦毛の馬(毛色が白い馬)をあらわす蒼前「そうぜん」という言葉が転じてあてた字で、主に東北の馬産地で馬を守護神として信仰の対象とされたものである。馬頭観音や馬力神と同じく、馬が生活の一部として大切にされてきた文化のあらわれなのであった。
今回の区間は道幅が狭くてたいへん危ない。車道の幅を確保しようとして杉の根元ぎりぎりまで舗装してあるのだが、杉は年々成長して根を張り、石垣を破壊して車道を脅かす存在になっている。
対向車は私の姿を見つけると徐行してくれるのだが、私は杉と車に挟まれて、細い身がますます細る思いである。杉は見るからに窮屈そうだし、歩行者の安全は無視されている。といっても、沿道に民家がほとんどないこの区間においては、歩行者の存在は想定されていないのだと思う。
1949年にこのあたりを襲った今市地震があり、その時地滑りによって街道が動いた場所に地震坂という案内板が立っている。後方の少し高い位置にあるのが本来の並木で、現在の道は手前に滑り下りてきたものらしい。
この先の神社にも、この地が地震に襲われ、そして復興したことを記した石碑が立っている。今から63年前の出来事であるが、風化されないようにこうしてその跡が残されている。
杉並木の中にある道路標識には何故か屋根がついている。並木の中では直射日光は当たらないし、雪も積もらないだろうし、視認性の確保という点からは必要ないと思う。では景観を守るということか。それにしては少々違和感があって結局のところ目的がよくわからない。
17区で、緑の実がぶつぶつのこの植物はなんだろう と書いたが、その後の調べでマムシグサという種類らしいことがわかった。名前からしておぞましいが、今は赤い不気味な実がなっている。群生しているわけではなく、街道沿いにぽつりぽつりと一本ずつ生えているのが不思議だ。
本日の終点、街道沿いにあるJR日光線文挟(ふばさみ)駅はきれいな駅舎の無人駅だった。かつては宿場があったところだが、文挟とはなんとも風情が感じられる響きの地名だ。松尾芭蕉ご一行様もここを歩いているのだが、曽良随行日記には、文挟が火バサミと誤記されているそうだ。「これ曽良や、地名を間違っちゃあ、そらあきまへん。」
文を挟むといえば現代の言葉ではクリップかバインダーのことだろうが、火バサミは、ゴミ拾いで使うピンセットのお化けみたいなもののことである。私はといえば、もっとギャグをとばせという支持者と、もっと格調高い文を書くべきだという良心の間で板挟みである。
(前髪が伸びすぎた少女風)
2012年11月