24区 壬生~小山
3月某日、関東地方の天気予報は「晴れて暖かい」だったが、「少し風が強い」と言っていたような気もする。その、聞いたような気がする情報が、たいへん大きな意味を持っていたことを東武宇都宮線壬生駅から走り初めてすぐに認識することになる。暖かく強い風に乗って、大量のスギ花粉と土ぼこりが舞う中を進む、つらい道中になったのであった。九州と違って、黄砂やPM2.5とやらは飛んで来ていないと思うのだが、この翌日、関東には「煙霧」という聞き慣れない単語が登場することになる。
乾いた畑からは盛大に土ぼこりが吹き荒れて全身を襲う。そして、飛んできた土は道路の縁石沿いにたまって、美しい風紋を描いている。おぉ何とすばらしい自然の造形美よ、と、ここは鳥取砂丘か!。
バレーボール部員がボールを片付けないで帰ってしまった後の体育館のような、かつて見たことのない光景が拡がっている。巨大なマッシュルームが勝手に生えてきたのかと思って近くに寄って見ると、かんぴょうの実の残骸であった。加工するには小さ過ぎたのか、何らかの理由で収穫されなかった実が放置されているうちに内部が腐敗して軽くなり、ころころと転がっている。念願かなって初めて見るかんぴょう畑は、栃木県でしか見ることのできない珍しい景色であった。
8世紀に全国に建てられた国分寺の一つ、下野(しもつけ)国分寺跡に寄り道をしてみる。なにやら整備をしている最中だが、寺があった跡にはただただ広い空間があるだけだ。かつて存在した建物を再建するのも良いが、何もないというのもそれはそれで余計な情報が目に入らず、想像力だけで見ることができて良いものだと思う。
国分寺跡から、それに続く風土記の丘公園にかけては桜も多く、春にはさぞ美しいことだろうと思うが、来るのが一ヵ月早かった。そういえば、この企画で各地の花や紅葉の名所を訪れているが、ことごとく季節をはずしてばかりだ(今回花粉の季節だけは、はずさなかった)。
公園を過ぎた所には琵琶塚古墳がある。前方後円墳なのだが、杉の木が茂っていて、遠くからでは形がよくわからない。ところで、その杉の木がなんと緑色をしていないのだ。花粉を目いっぱい作って蓄えているために、木全体が黄色がかった茶色に見え、突風が吹くと花粉の黄色い煙が舞いあがる。コフンからカフンでぎゃふん、などと軽口をたたいている場合ではない。花粉症ではない私が見ても目を覆いたくなる、なんともおぞましい光景である。
こふんちゃん
小山市街に入る前に、大日山美術館という看板を見つけて入ってみる。古い民家を改造した小さな美術館で、単に美術品があるだけでなく、足尾銅山の鉱毒を告発して闘った田中正造(1841~1913)の生涯が、地元の画家小口一郎による多数の版画と解説によって展示されている。栃木県で起きた、日本の公害の原点ともいうべき出来事の経緯についてじっくり学んだうえに、管理人をされている老夫妻から思いもよらぬ歓待を受け、長居をしてしまった。
街道沿いのゴルフ場の中に古墳があり、柵もないので勝手に敷地内に入ることができた。桑57号墳跡地と看板がある(そういえば、先ほどの美術館の管理人さんが、昔は桑という地名だったと言っていた)。円形に見えるが、少し出っ張りがある帆立貝式古墳とのこと。ゴルフ場が造成されるにあたって、コース内の古墳が壊されることなく、そのまま保存・管理されているのはありがたいことだ。
「史跡 小山ゴルフクラブ内古墳群」との碑があり、たしかにその通りで、いやまったくその通りなのだが、なんとも歴史の重みは感じられない史跡名だ。
こふんちゃん
喜沢の追分(喜沢東交差点)に到着する。振り返れば昨年1月、11区で小山から出発してこの交差点を通過したのであった。そして、小山・宇都宮・日光を頂点とする大きな三角形を描くように進んで、本日、再びここへ戻ってきたのである。これにて日光西街道南行は終了、次回からはさらに南へ、日光御成道をお江戸に向かって進もう。
それにしても全身が埃まみれで気持ち悪い。早く家に帰ってさっぱりしたい、が、その前に早く顔を洗ってうがいをしたい。とJR小山駅のトイレに駆け込んで本日は終了する。
2013年3月