30区 赤羽~駒込
赤羽から清水坂を上ってしばらく進むと、十条の富士塚がある。富士塚とは、信仰の対象として富士山の縮小版を作ったもので、本物の富士山にはそう簡単にいつも登れるわけはないが、これに登ってお参りすれば本物に登ったのと同じようにご利益があるというものだ。本家の富士山が世界遺産に登録されたことを祝う掲示板がにぎやかで、分身とはいえ、こちらも地元の人にたいへん大事にされている様子がうかがえる。
ところが、それなのに、しかしながら、である。散歩に来たビーグル犬の相手をしていると、飼い主のおじさんが、「道路拡張でここも壊されるらしいから、写真撮っといたほうがいいよ。」とおっしゃる。そういえば赤羽からここに至るまでに、街道に沿って空地が目についていたのだが、道路を拡げるための用地整備が進んでいるのだった。おじさんは「たたりがなきゃいいけどね。」と、恐ろしいことを言い残して去って行こうとされるが、犬は驚愕と恐怖のあまり大きい方を催してしまった。
名主の滝公園、という矢印があるので急坂を下って滝を見に行くが、江戸時代の名主が開いた公園の入口には、現在水は流れていません、と断り書きがある。たしかに滝の水は涸れているものの、山深く入ったような趣で、都会の中とは思えない静寂が味わえる。
ところで、いくつかある滝のうちの一つの案内板に「故障中」と張り紙がしてある。つまり、自然の水はとうに涸れており、人工的に水を流すポンプを付けたものの、今はそれが故障中というわけらしい。それにしても、自然のものと信じて疑わなかった滝が「故障中」とはなんとも悲しすぎる。そこまで正直に説明されるとなんだかなぁ。と、とぼとぼ急坂を上って街道に復帰する。
東日本のお稲荷さんの総元締めだという王子神社から坂を下りると、JR王子駅前の橋の下はちょっとした渓谷のような親水公園になっている。しかし、こちらも水に親しむにしてはあまりに水量が少ない。さきほどの涸れた滝といい、水の流れはどこへ消えてしまったのだろうか。かつてこのあたりは用水路が引かれて水の便がたいへん良かったため、水を多く使う工場が立地していたというのに。
王子にあった工場のうち、製紙工場はのちの王子製紙の前身なのだが、駅前から飛鳥山に上ると、会社設立に関わった渋沢栄一の庭園と建物が公開されている。紙の博物館というのもあって、せっかくなので、紙の製造工程やリサイクルについてなどを学ぶ。
江戸時代の街道沿いにある一里塚は、都会に近づくほど破壊されている可能性が高いので、埼玉県内の一里塚を通過する度にこれが見納めかと思っていたのだが、どうしてどうして、都内でもここ西ヶ原の一里塚は街道の両側ともきれいに残されていた。正確に言うとここは片側二車線の道路で、写真で左側にある塚は中央分離帯になっており、その奥には反対側の二車線がある。
保存運動の経緯を説明した板が立っているが、道路拡張で壊される塚が多い中で、中央分離帯として残す手があったか、なるほどよく考えられたものだと感心する。壊されそうな富士塚あれば、残った一里塚もある。道を渡って中央分離帯がどうなっているのかもう少し観察したいところだが、実はここは滝野川警察署の目の前なのだ。お巡りさんが見ている前で道路を横断して、うろうろする勇気が私には残念ながらなかった。
古河庭園(古河財閥の邸宅だった)を過ぎて坂を下りきったところに細い路地があって、ここが霜降銀座商店街の入口だ。名前が霜降だからといって高級牛肉を売っているわけではなく、庶民的な魚屋さんや八百屋さんが、たいへん活気に満ちて営業中だ。ここは昔川が流れていたところで、道は川の流れのように微妙にカーブしながら進み、やがて染井銀座商店街と名前を変えてさらに先へと続いている。どこまで行ってもきりがないので適当なところで切り上げて戻るが、この染井という地名、今は町名としてはなくなっているが、ソメイヨシノはここ染井の植木屋さんから全国に広まったのだ、と今回知った。こんな、日本人にとって大切な地名が埋もれてしまっていいのだろうか。いや、そんなはずはない。
それはさておき、霜降・染井銀座商店街のように、窪地や谷に商店街が発達している例は多い(最も代表的な例は東京渋谷だろう)。その理由は、人は下り坂を好んで集まる習性があるからだと言われていて、それはその通りだと思うのだが、どうも人の行動は合理的ではない。交通機関がなかった時代、坂道を下りて商店街で買い物をすると、帰りは重い荷物を持って坂を上らなくてはならないのだから。
ここから坂を上がるとJR駒込駅、その先には六義園(三菱財閥の岩崎家が所有していた)がある。今日は坂のアップダウンを繰り返すコースだったが、高台には実業家の邸宅、低地には庶民の暮らし、という区分が明確であった。
それにしても、富士塚の運命や如何に。そして、たたりは・・・・・・。
2013年10月
【参考文献】