40区 運河~野田
千葉県には貝塚が多いのだが、その一つである山崎貝塚に寄ってみる。サッカーグラウンドが2面は取れそうな広大な土地の表面に、貝殻がざくざくと出ている。なんとも壮大な景色で、これがすべて今から3000~4000年前の縄文人が食べた貝の殻だと思うと、その途方もなく長い時の流れに感動する。さらには、よくもまあこんなに食ったものだと感動する。同伴者は、ホタテのような貝殻があると言うのだが、さすがに東京湾にホタテはいなかっただろうと思う。下を見ながら歩くと、シジミや赤貝やサザエやカキなどの(正確には違うかもしれないが、そのような種類の)いろいろな貝があって、来たかいがあった。
この貝塚の発掘調査によると、アサリやハマグリの貝殻層とシジミの貝殻層が分かれているそうだが、それは几帳面な縄文人が貝を種類別にきちんと分別して捨てたからではない。
昨今、地球温暖化による海水面の上昇が問題視されているが、縄文時代には、今東京湾から30kmほど内陸に入っているこのあたりが海岸で、アサリが採れていた。やがて地球の寒冷化が進んで海水面が低下すると、ここは河口に近く淡水が混じった汽水域となってシジミが採れるようになった。年代によって採れる貝の種類が変わったため、それぞれの貝が層になっているのだ。
縄文人は地球規模の気候変動のことなど知る由もなく、その時々に採れた貝をあっさり食べたり、しみじみ食べたりしていたのだろう。今後、急速な地球温暖化で水面が縄文時代レベルに戻ると、ここは再び貝が採れる海岸になり、その時首都は東京湾に水没することになる。
道路脇や神社の境内で、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られた石塔(青面金剛や庚申塔という)をこれまでも見てきたが、この地域は人々の信仰が特に厚かったようで、数多くある。そして今日、これまでの私の理解を覆す発見が二つあった。ひとつは、3匹の猿は同等・同列の存在だと思っていたのだが、親猿と2匹の子猿と思われる三猿があったこと。もうひとつは、猿は猿らしい姿で座っているものだと思っていたら、烏帽子と衣装を身に着けて踊っている三猿がいたこと。う~む三猿の世界も奥が深い。
右の言わざるが聞かざるを抱いている。
下段の2匹は踊っている。
野田は18世紀から醤油造りが始まった醤油の街。街の中心にキッコーマン社の工場があり、醤油煎餅屋があり、街全体が醤油の香りに包まれている。
キッコーマン社創業家の一つ、高梨家の屋敷跡は上花輪歴史館として公開されていて、醤油醸造に使われた昔の器具や美しい庭園を見させていただいた。その向かい側には、醤油の蔵としては珍しく西洋モダンな雰囲気の煉瓦造りの蔵が保存されている。このように歴史を大切に保存し、一般にも公開しておられる姿勢は我が社も見習わなければと思うのだが、実現できていない。
東武野田線の野田市駅に向かうが、この路線はもともと醤油工場の貨物線として始まっている。柏方面から来た線路は、この駅の手前から工場へ向かっていたはずで、駅前の駐輪場がかつての線路跡だと思われる。写真の手前に現在の線路が走っており、ここから工場に向かって緩やかにカーブしながら細長い駐輪場が続いている。おっと、駐輪場ではなく自転車駐車場と書いてあることに気付いた。
さて、今月は貝の話で始まったので、貝で締めよう。私たちが日常食べる貝はアサリの酒蒸し、シジミの味噌汁、サザエの壺焼き、ハマグリのお吸い物、カキフライ、と料理法はともかく縄文時代から貝の種類は変わっていないのだが、最近関東ではホンビノス貝という新顔が登場している。北アメリカ原産なのだが、船のバラスト水(船の荷が軽い時にバランスを保つために積む水)に紛れて東京湾にやってきて定着したらしい外来種だ。外来種は生態系を乱す困った存在として扱われることが多いが、このホンビノス貝は今のところ在来種に悪影響を与えている様子はないし、食用になるので、まあいいじゃないか、という評価をされている。
では、どんな味なのか、と初めて買ってきた。見かけは大きなハマグリをさらに一回り大きくしたようなもの。酒蒸しにして食べたが、味もハマグリに似たものであった。
今のところ生息が確認されているのは東京湾のみで、船橋港でしか水揚げされていないので、流通は限られているが、船橋から出て全国的人気になった“ふなっしー”に続く存在になるのかどうか注目である。ちなみに、ホンビノスの“ビノス”とは、分類学上Venus(ヴィーナス)属に含まれていたからで、そういえば巨大な二枚貝が口を開いた上に女神が立つ“ヴィーナスの誕生”という絵が思い浮かぶ。しかし、このホンビノス貝から女神が出てくる場面はちょっと想像できない。
2014年10月
【参考】