走らんか副社長
【中山道 西行】

72区 日本橋~本郷

この連載で日本橋に来るのはこれが4回目だ。ここを起点にこれからどこへ向かうかなのだが、今東京から名古屋・京都方面に行こうと思えば、JRなら東海道新幹線、車なら東名高速で西へ向かうのが常道だ。それは江戸時代でも同じで、多くの人は東海道を歩いて西に向かっていた。では、日本橋から北へ向かって現在の埼玉・群馬・長野県を通って京を目指す中山道はなぜ存在したのだろうか。距離的にも遠回りで、平坦でもない山道はどんな道だったのだろうか、行けるところまで行って見てみよう。と、東海道とは逆方向に出発する。


いつの時代にも、王道を歩むことを嫌って、人生は裏街道こそがおもしろいというひねくれ者がいるもので、そんな変人のために中山道は存在したのだと思っていた。まあ、それもひとつの真実かもしれないが、中山道の存在には理由があるようだ。

東海道は大井川などの大きな川を横切るため、足止めされることが多かった。大井川には橋はもちろん渡し船もなかったので、川を渡るには水に浸かって自力で歩くか、人足を雇って担がれて渡るしかなかった。雨で水量が増えれば数日間足止めを食うことも珍しくなく、日数も費用もかさんでおおいに難渋するのでそれを避け、あえて壮大なる“急がばまわれ”をして中山道を選ぶ人がいたのだ。あるいは、東海道よりも警備が緩かったという事情もあったようだ。


明治に入って鉄道を敷設する際にも、橋を架ける技術の未熟さが障害となっていた。ちょうど弊社が醤油の醸造を始めた頃、日本政府は東京・京都間に鉄道を建設することを計画し、そのルートは箱根の山を越え複数の川を渡る東海道と、山中を走る中山道と、どちらが実現可能かという検討の結果、中山道に沿って建設することが明治16年にいったん決められている。しかしその後碓氷峠を測量した結果、当時の蒸気機関車では峠の勾配を登れず、かといって長いトンネルを掘る技術もないことから、東海道線を先に敷設するよう変更された経緯がある。

明治時代の蒸気機関車の性能がもうほんの少し優れていたら、日本の鉄道の歴史は変わっていたようだ。


今回の区間は、かつて日光御成街道を南下して来た道と重なるので省略しても良かったのだが、神田明神をぜひ再訪したいと思って省略せずに歩くことにした。といっても、神田明神にお参りすることが目的ではなく(不信心申し訳ない)、そこにいたかわいい木曽馬の神馬に会いたかったのが理由だ。名前はあかねちゃんだったろうか、同伴者にそれは違うと言われるが、たしか“あ”で始まる3文字だったと思う。あさりちゃんやアラレちゃんでは漫画だし、あおいさんやありささんやアリスさんは女優だし、思い出せない。

あかりちゃん(これが正解)は、残念ながら不在だった。故郷の木曽へ避暑に帰っているのだろうか。猛暑日が続く7月なので、そうだとしたら賢明なことだ。

神馬あかりちゃん
(2013年10月撮影)

本郷は、夏目漱石、樋口一葉、宮沢賢治、正岡子規など多くの文豪や歌人たちが生活していた土地だそうで、そのゆかりの場所が多数案内されている。最近はアニメの舞台となった土地をファンが訪ねる、いわゆる“聖地巡礼”が流行しているが、これら文人の作品を本当に好きな人であれば、この地域を訪ねることはとても感慨深いことだろう。たとえば、大通りをはずれて狭い路地のそのまた奥へ入って行くと昔からの住宅があって、そこには一葉も使っていたという井戸が残っている。しかし、一葉の作品を読んでいない私としては、ただ興味本位で歩いていることがなんとも後ろめたく、住民の方の生活圏に踏み込んでしまった感があって居心地が悪い。物事に感動するには、その分野の素養がなければならないと痛感する。

2017年7月

【参考文献】

  • 「街道」で読み解く日本史の謎 安藤優一郎 PHP文庫
  • 今回の走らんかスポット