103区(連載140回) 屋代~川中島
新型コロナウイルスの流行が始まってから、遠出をして走るのは自粛して“海の生き物シリーズ”で場をつなぐというか、お茶を濁していたが、これほど長く自粛が続くとは思わず、さすがにお茶が濁りすぎてしまったようだ。
この3年弱の間でランナーとしての私はどうなったかというと、マスクをしてまで走る気がしなかったので、練習量が激減してしまった。この年になると、加齢による体力の衰えを日々の練習によって下支えしなければならないのだが、それをしなくなったために走力の低下は隠しようがない。ただ、長距離を走る“走力”には二通りあって、一つは速く走って自己記録を更新する走力と、もう一つは楽に長時間走り続ける走力だと思う。前者の向上はもう望むべくもないが、後者はまだまだなんとかなると思うので、あきらめてはいない。
そういうわけで、2年前から中断している長野県の旅を再開しよう、と前回の終着点、しなの鉄道の屋代高校前駅からぼちぼち歩き始める。久しぶりだなぁ、前回ここに来た時の高校生も2・3年生はもう卒業してしまったなのだなぁ、と思いつつ街道を横道にそれて松代(まつしろ)を目指す。
道路沿いに前衛的な像がいろいろあるのだが、これは今の私にぴったりの像で“久しぶりに運動したら足がつって、いてててての像”と勝手に解釈する。
松代城は武田信玄が築城し、その後真田氏が十代にわたって城主であった居城。一通り観光したのだが、それはともかく、松代には象山(ぞうざん)地下壕という戦争遺跡があることを今回知った。太平洋戦争末期、東京が壊滅的な被害に遭うことを恐れて、皇居や大本営などの首都機能を松代に移転する計画が極秘裏に、しかし着実に進んでいたのだ。ここ象山の山腹には政府機関や日本放送協会が移転する計画で全長5,800mを超す横穴が縦横に掘られており、うち500mほどが公開されている。備えつけのヘルメットをかぶって中に入ったのだが、延々と続く穴の壁は固そうな岩で(固いからこそ爆撃に耐えられると評価されたのだが)、よくぞこんな穴を掘ったものだと思う。戦争の暗い側面がこんなところにあるとは知らなかった。
松代から川中島古戦場跡を目指す。川中島と言えば、武田信玄と上杉謙信が戦った場所として有名だ。しかし、この地は千曲川と犀川が合流する手前の土地で三角形ではあるが、川の中の島ではない。大阪の中の島や、福岡の中洲はその名の通り川に囲まれているが、ここは違う。ついでにもっとおかしなことを言えば、松代城は別名海津城と呼ばれていたらしいが、これも海から遠く離れた長野県で海の津(港)とはいかがなものか。
この連載の114回で北国街道の海野宿を通過した時に、海がないのに海野宿とはなぜなのだ、と思ったことがあった。どうも、昔の地名の付け方はそれほど地理に厳密なものではなかったようで、島ではなくてもなんとなく水に囲まれているようなら島だし、川幅の広い川は、日頃海を見ることのない人々にとっては海のようなものだったのだろう。
古戦場跡にある長野市立博物館で、武田対上杉の戦いについて学ぶ。説明されている中で印象的だったことをまとめると、①大河ドラマにとり上げられて一気に有名になったこと、②限られた資料しか残っていないので、信玄と謙信が直接対決したかどうかなど、事実はたしかではないこと、③両軍ともに数千人の犠牲者が出たと伝えられているが、多くの地元民が命を落とし、あるいは物資の略奪や人身売買などがあって多大な犠牲を強いられた、ということ。いずれもなるほど、と納得することばかりだ。
博物館には、地震に関する展示もされているのだが、そういえば松代という地名には聞き覚えがあって、“松代群発地震”という言葉が記憶の底から出てきた。1965年から5年半もの間、この付近が震源(ワープロが信玄と変換したので苦笑してしまったが、笑ってよい話題ではない)の地震が続いて、家屋の倒壊や地すべりの被害があったのだった。調査研究の結果、その原因は水噴火(地下深くで高圧になった水の上昇)によるものとされている。今や話題にもされないが、当時報道されていたことを記憶している、ということで私がそれなりの年齢だとわかるというものだ。
2022年12月