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 私たちの子供の頃は、台所に並ぶお酒、醤油、酢、油などの容器は一升瓶ばかりでしたが、それから数十年、今はほとんど見受けなくなりました。
 今月は、その一升瓶の歴史をたどってみました。
 
一升瓶
 「3人で一升瓶3本倒したばい」
 酒豪におなじみの一升瓶が、最近は急激に減っています。私ども醤油業界では30年前までは90%近くは一升瓶でしたが、今は10%ぐらいになっているでしょうか。その理由は核家族、重い、冷蔵庫に入らない、処理に困る、といったところでしょう。一升瓶にかわって、スーパーの売り場には1.5リットル、1リットルのペットボトル、さらに少量化、多様化しています。
 
ガラス壜(びん)の登場
 一升瓶が出現する前の容器といえば、主流は樽と徳利でした。ご年配の方々は、子供のお使いには徳利を持って酒屋に行き、樽の呑口(栓)を三本指で捻って量り売りをしてもらった思い出をお持ちの方もあるでしょう。
 ガラス壜が登場するのは、明治19年、日本橋の岡商会が壜詰清酒を売り出したのが嚆矢(こうし:物事のはじめ、最初の意)とされ、以来、壜詰が増え、明治30年代に「澤の鶴」「白鶴」が人工吹きガラスの一升瓶入りの清酒を売り出しています。
 
機械製の壜
 明治の後半になると、日本経済も充実し、人口増、生活向上に伴い酒の量が増え、壜も増えます。大正に入り、第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ各国のガラスの生産が激減し、壜が不足し、日本に大量の注文が入ってきます。輸出した壜は戻りません。国内の壜は拂底(ふってい:なくなることの意)します。そこで何とか大量生産しようとの機運が高まります。大阪の徳永硝子製造所の2代目 徳永芳治郎は、弟と血のにじむような努力を重ね、大正11年に自動機で吹く一升瓶の生産に成功します。その能率は一挙に30倍、まさに技術革新です。
 翌12年の関東大震災は、おびただしい数の陶製の徳利、人口吹きの一升瓶を焼失しました。その結果、一挙に王冠付き一升瓶が普及します。
 
戦時下、焼夷弾
 加速度的に普及した一升瓶も、戦時色が強くなる昭和10年頃から不足し、昭和14年には価格が統制され、また“空瓶持参”でないと清酒、醤油が買えなくなりました。
 昭和20年、敵機の来襲に備え、大阪桜の宮駅に醤油2リットル瓶150万本が貯蔵されていました。3月13日の夜、B29の大空襲で、無残にも瓶は熔け、全部焼失。ところが、屋外の木樽は無事だったとのことです。
 
一升瓶での精米
 江戸後期、天明の飢饉のとき、江戸市民は徳利で精米をしたということですが、第二次大戦の戦中、戦後、当時では宝物だった玄米を誰が教えたのか、一升瓶に入れて搗きました。何となく苦く甘酸っぱいような、戦前戦中派の生活体験です。
 
 その後、経済の成長とともに、一升瓶は普及しますが、醤油の一世帯あたりの消費量の減少、生活様式の変化、容器の材質の変革もあり、一升瓶は急激に減少していきます。
 宮島醤油でも、一升瓶を使用していきたいと努力してきましたが、一升瓶を洗う機械の老朽化、新工場の建設にあたり、残念ながら一升瓶の醤油の生産を断念せざるをえませんでした。
 私たちには、お酒、醤油と親しみ深い一升瓶ですが、その歴史をたどるといろいろ教えられます。ガラス、一升瓶は、出荷の90%は回収できる、リサイクルでは優等生、品質保持の面では優れているところがあり、日本人に最もなじんだ容器です。一升瓶に接すると、何となく郷愁をそそられます。
 
因みに、一升瓶の流通量が最も多かったピーク時は
   洗い瓶(古瓶) 新瓶(生産)
昭和49年 1,500,000千本 321,434千本
その後、約30年後の現在は、
   洗い瓶(古瓶) 新瓶(生産)
平成14年 360,000千本 67,128千本
約30年で1/5に減少しています。
 
あらためて、一升瓶よ、ありがとう!感謝の気持ちを込めながら・・・。
参考文献
「びんの話」 山本孝造 社団法人 日本能率協会 1990年11月1日発行