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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
春の陽気に誘われて、唐津街道 唐津〜博多
をご案内しましょう。 |
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健在なりし頃の包石 |
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(一)包石(つつみいし) |
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唐津から福岡へ向かう。名勝 虹ノ松原をくぐり抜け浜崎を過ぎ、しばし玄界灘を左に202号線を走ると、福岡・佐賀両県の県境にさしかかる。 |
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県境ですよ、と云わんばかりに、海辺の岩場に包石と称する珍しい岩が立っていた。 |
その岩が、いつの頃からか崩れたらしい。この頃になって、ふとそれに気がついた。 |
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思い立って、このホームページのスタッフ二人、廣渡・堀内 両嬢を伴って、県境の散策を試みたのは4月。ここかしこ、咲き誇る桜を愛でながら、包石を訪ねた。国道202号線、県境に車を止め、浜辺に出る。 |
多くの岩石の上に乗っかかっていた、まんまるい石は、東のほうにずり落ちている。旅人たちを慰めていたであろう包石も、長い歳月の風雪と荒波に堪えかねたのだろうか。無言のまま、どっしりと坐り込んでいる。 |
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現在の包石 |
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こういう風に落ちたようです。 |
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有史以来今日まで、邪馬台国の頃には、中国・韓国から対馬・壱岐の島をたどり、末盧国へ上陸し怡土国・奴国へ、肥前から筑前へと行き交う人々へは、よき案内板だったのだろう。 |
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太閤秀吉も、包石を望みながら肥前名護屋に赴いたのだろうか。 |
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幕末の地理学者 伊能忠敬は、日本地図作成の旅として、その測量日記には |
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『小印より街道海辺隔り少き故通用、野昼休、海辺に包石あり、古は鼓石というと、 |
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名にし逢う、響の灘の白波は、鼓の石に、おとつるるなり、 |
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古歌 |
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それより十一町六間にて、筑前国怡土郡御料所鹿家村肥前国松浦郡御料所淵上村界なり。』 |
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と誌している。 |
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また、海上からは格好の目印となっているため、天保4年(1833)、福岡藩から唐津藩への申し入れにより、この包石と壱岐島の三ツ瀬を見通した線を両国の海境としたということだから、両藩の境界として重要な役割を果たしていたのだろう。 |
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崩れ落ちた包石の跡を仔細にみると、国土庁の地籍図根三角点が埋め込まれている。ここが正確な県境なのだろう。現在は202号線よりには、「福岡県 佐賀県県境」の石柱が両県の境界であることを明示してある。しかし、古い国境石「從是東筑前国」は、筑肥線が敷設されたとき、線路の南側の山中に移設されている。唐津の古老たちは、包石から約150mほど福岡寄りに流れる太刀洗川が境であったのに福岡県から「くじられた」・・・えぐられたと云い伝えている。 |
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国道沿いの石柱 |
至福岡 四二三三粁 十里二十八丁/至唐津 一〇四七粁 二里二十四丁と書かれています。 |
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いずれにしろ、包石は双方の人たちにとっては貴重な存在であったことは確かなことである。数日前、二丈町役場に「できたら復旧して下さい。」とお願いしたが、「早急には・・・」との返事だった。はや“まぼろし”の包石になってしまうのでは、いささか淋しい想いがする。 |
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(二)七郎神社 |
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春陽に輝く玄界灘に突出する岩場から踵をかえし、再び202号線を横切ると、七郎神社という小さな祠がある。 |
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20数年前、先輩と福岡へ向かう途中、 |
「宮島君、七郎神社にお詣りしよう。次男がゼンソクを患ったとき、お世話になったから・・・」 |
と勧められてお詣りしたことを思い出しながら、こんもりとした木立の間を数歩下ると、小さな滝が落ちている。ひんやりとする。奥には小さな祠があり、そのまわりにはセキが治ったお礼状や、玩具の刀、木刀がうず高く供えてある。以来、セキにまるわる神社、七郎神社の伝説に関心をもち、その由来を尋ねた。 |
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小さな鳥居 |
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時は、今を去る1300年前、聖武天皇の時代に遡る。 |
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藤原不比等の孫、藤原広嗣は朝廷内での政治斗争に敗れ、聖武天皇から太宰府少武に左遷される。当時、中央にあっては、唐への留学から帰国していた僧玄ム・吉備真備が急速に重用され権力を恣いままにし、行政は乱れていた。これに怒った広嗣は、彼等の非行を訴え追放するよう上奏する。しかし、これが逆に広嗣は奸人とみなされ追い詰められ、彼はついに天平12年(740年)、九州で兵を起こした。世にいう、藤原広嗣の乱である。 |
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奉納された刀 |
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天皇は、官軍17,000人の兵を進め、最後の決戦は板櫃川(現在の小倉)で展開する。武運つたなく広嗣は敗れ、生き残った手勢十数名を引き連れ博多を後にし、糸島から唐津へと馬を馳せる。才尉(サイ:今の鹿家)の駅まで来たとき、待ち伏せた官軍の検問の兵に囲まれた。広嗣は“われに続け”と敵中に躍り込む。 |
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このとき、広嗣の馬の手綱をとっていた、右馬七郎なる若者、“御主君だけ死なせてなるか”と獅子奮迅の活躍、しかし七郎は死斗の末、意識不明となってしまった。 |
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それから数刻の後、七郎は冷たい雨にうたれふと目が覚める。傷は痛む。夜は更ける。手さぐりで身を隠す場所を探すと、幸いに洞穴が見つかる。入り込んだ。途端に寒気を感じ、つい「ゴホン」と咳込む。 |
この時、岩の上で見張っていた官軍の兵がこのセキを聞きつけ、タイマツで洞穴を照らす。「この犬め」と七郎はタイマツの男の腰から短剣を抜き取るや否や、その男を突き刺す。 |
「我は、太宰府少武、藤原広嗣の馬率 右馬七郎なり、最後の様を見ておれ」 |
と叫び自刃。壮烈な最期を遂げる。 |
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七郎が隠れたと云われる洞穴 |
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一方、広嗣は逃れて肥前の値賀島(五島か平戸)へ、さらに船で済州島へと脱出を企てるが、風で戻され官軍に捕らえられ、松浦の里で処刑されたと伝えられる。今その遊魂は、鏡神社、大村神社に鎮まり、祭られている。 |
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右馬七郎は、セキをしたばかりに発見され、悲壮な割腹、その武勇と悲運はその後村人たちに同情され、彼が隠れていた洞穴に彼の霊を祭ったのが七郎神社である。 |
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今、佐賀・福岡両県、肥前・筑前両国境に立つと、玄界灘からの白波は、こんな血腥い歴史を知るや、知らずや、静かに砂浜に落ちた包石に打ち寄せている。 |
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このセキの伝承と「塞(サイ)の神」が結びついたのか、今も災難よけや、咳の神様として木刀が献納されている。12月の丑の日には村人が参詣し甘酒を供えるとのこと、昭和初期までには七郎茶屋があり唐津へ、博多へと行き交う旅人たちが疲れを癒していたという。 |
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江戸時代の唐津を起点とする唐津街道は、ここから二丈カントリークラブに近い鹿家に入り、福吉に抜ける。国境には幾多のロマンが秘められている。 |
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(三)姉子の浜 |
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春うらら、二人のお嬢さんとともに歴史・地理の勉強を終え、玄界灘を一望できる海辺に遊ぼう と、鹿家(しかか)の海岸「姉子の浜」に降り立つ。一望すれば、180℃を越す角度に広がる紺碧の海。この日は大潮、波は静か、しばし海辺でたわむれる。 |
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九州で唯一の鳴き砂の海岸
「姉子の浜」 |
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「わぁ〜彼ができたら連れてこよう」とはしゃぐお二人。 |
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この海岸は、砂浜を踏めば鳴ることで有名。サーフィン、海水浴にはまさに最適。 |
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どうぞ家族連れで、あるいはデートに唐津〜糸島の海岸線にお出かけください。 |
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参考文献 |
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唐津街道 / 河島 悦子 著(株式会社 海援社) |
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浜玉町史 / 浜玉町史編集委員会 編(佐賀県浜玉町教育委員会) |
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糸島の伝説 / 糸島郡観光協会 編(西日本新聞社) |
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