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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
齢七十路を越えると、何気なく少年時代のことが蘇ってくる。
名古屋場所のある今月は、相撲少年だった頃の思い出話を記してみたいと思います。 |
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(一)相撲と私 |
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大相撲 七月場所が始まる。 |
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若貴人気で盛り上がった相撲人気も、貴乃花の引退で冷え込んでいたが、朝青龍の眼を見はる強さに支えられ、今年に入ってからの三場所連続優勝をさらに伸ばせるかどうか、と人気は盛り上がっている。 |
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私は、自他ともに許す大の相撲ファンである。 |
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「僕は相撲が強かったんですよ。」 |
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と云っても「ウソー」とばかり、怪訝そうな顔をされる。 |
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それもそのはず、身長170cm、体重50kg、体脂肪率10%という痩躯では当然である。しかし、これでも小学6年生の昭和16年の夏には、唐津市東松浦郡の相撲大会、今でいう腕白相撲大会では夕闇迫る頃、決勝戦に進出、見事個人優勝した経歴を持っている。しかし、今となっては、これを証明してくれる友人たちもだんだん少なくなってきた。 |
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前列左から2人目が少年時代の私 |
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ふりかえってみると、物心つく頃からの相撲ファンである。昭和初期、大相撲は横綱空位時代から、玉錦、双葉山時代へと移り、双葉山の無敵さが当時の日本の躍進と重なり、空前の大相撲人気であった。昭和13年、負けることはないと信じていた双葉山が70連勝ならず、安芸ノ海の外掛けに倒れる一瞬を雑音まじりのラジオで聞いた興奮は今なお醒めていない。その頃の子供たちは、新聞・ラジオを通しそれぞれのひいき力士の勝負に一喜一憂、お互い好きな力士名を名乗り、砂場や土俵でたわむれたものである。 |
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憧れの的だった |
第35代横綱 双葉山定次 |
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69連勝の記録は未だ破られていない。古い相撲ファンにとっては神格的な存在である。 |
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(二)小結 松浦潟(まつらがた)達也 |
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こんな中で、いつの頃からか、父 傳兵衞が東松浦郡鎮西町の馬渡島(まだらしま)出身の力士、松浦潟の後援会の会長を引き受けた。このため、私の相撲熱はいやがうえにも舞い上がっていった。勿論、松浦潟が中心である。小学3〜4年生頃から幕内十両の全力士のブロマイドを肌身離さず、部屋、出身地、身長・体重から得意技まで殆どそらんじている程熱中した。 |
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父も父で、会社や出張先から、 |
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「傳二郎、松浦潟はどうだったか」 |
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と電話がかかってくるから、いやでもラジオを正確に聞き取っておかねばならない。 |
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「突張りあいから左四ツに組んで・・・」 |
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と報告するのである。 |
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ある場所、松浦潟の調子がよく大関を破ったとき、父いわく。 |
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「東京で牛肉をいっぱい喰わせたからな」 |
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と、いかにも嬉しそうだった。 |
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私の古いアルバムに、松浦潟と少年 宮島傳二郎の写真がある。前に述べた相撲大会で優勝した後、元唐津市長の清水荘次郎さんにある料亭に呼び出されて記念に撮ってもらったものである。
この写真に見られるように、松浦潟は、現役時代の龍虎を少しやさしくした感じの色白の美男力士である。 |
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さて、松浦潟は大正4年生まれ、鎮西町馬渡島出身のクリスチャン。初土俵は昭和5年1月、錦島部屋から立田山部屋(元大関能代潟)、最高位は昭和17年春の小結。相撲はうまく、左四ツ右上手投げの技は冴え、6尺1寸5分(186cm)28貫(105kg)と均整のとれた躯での吊りも武器であった。昭和18年夏には、安芸ノ海、照国の両横綱を破る殊勲をあげ、「松浦潟の時代が来る」とさえ言われていた。しかし、あまりにも美男子、女性ファンにもてすぎたのか、稽古は好きな方でなく、気の弱さも手伝って、実力が発揮できなかったようである。 |
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昭和16、17年頃、唐津に帰り唐津商業学校の土俵開きに招かれ、東町の宮島宅に立ち寄ったとき、彼の颯爽たる雄姿に接したのが最後である。ふりかえってみると、その頃が彼の絶頂期であり、その後は幕内上位で活躍していたものの、戦争も厳しくなり、新聞・ラジオの相撲の報道も途絶えがち、父も亡くなり、終戦までは心ならずも相撲の情報からは疎遠になっていく。 |
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そのうち、風の便りに、人気力士 松浦潟と豊島が戦災死したと聞き、暗い気持ちになっていた。 |
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(三)東京大空襲 |
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相変わらずの相撲好きはこの年まで続き、本屋の店頭で相撲に関する本を買い漁っている。 |
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1991年発行の、小島貞二著“あるフンドシかつぎ一代記”戦中戦後の相撲史の中に、松浦潟の最期が次のように書かれているのに出くわした。 |
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昭和20年3月9日深夜から10日未明にかけての東京下町大空襲は、国技館にも火が入った。 |
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本所千歳町のすぐ裏の竪川(たてがわ)の棟割長屋の一軒に、松浦潟達也が、新婚間もないかみさんと、疎開もせずに住んでいた。 |
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長屋に火が入り、松浦潟はしばらく消火に当たったが、いよいよ危険を察し、身のまわりのものを荷車の上に山と積み、松浦潟が車を曳き、かみさんが後を押して、むろん防火装束もガッチリと、一の橋から深川方面をめざして足早に走って行くのを近所の人が見ている。以来、消息は猛火の下に消えた。 |
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数日たって、深川方面の死体処理に当たった警防団の一人が「そういえば、バカに大きな仏さまがあったよ」と語ったのを相撲関係者が聞いているが、果たしてそれが松浦潟かどうか、もしそうだとしたら遺体はどこでどう処理されたのか、誰にも確かめるすべはなかった。享年 31歳、合掌。 |
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(四)そして今、テレビ観戦 |
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たまたま今年3月8日、東京出張の合間を縫って、両国国技館、相撲博物館を訪ねた。平成時代の横綱展を楽しんだ後、両国、本所、深川界隈を散策する。ちょうど59年前の3月9日、ここ隅田川の下流は、米軍の焼夷弾の絨毯攻撃により、一瞬のうちに炎に包まれた数万人と云われる犠牲者を思うとき胸は痛む。 |
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戦争は悲惨である。 |
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今、平和な日々に、大相撲をテレビ観戦しながら、いつの間にか、少年時代の夢を追っている。平成16年 名古屋場所は、7月4日初日を迎え、熱戦の火蓋を切る。大正14年、昭和天皇(当時摂政)から下賜され、東京大空襲をくぐり抜けた賜杯は誰の手中に帰するのだろうか。 |
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父が亡くなって、すでに60年余となる。当時、公私に多忙であったろうと思う父と交わした相撲の話だけが、奇妙に耳朶に残り、大相撲と父の面影が重なる。 |
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本名 |
牧山強臣 |
生年月日 |
大正4年5月27日 |
出身地 |
佐賀県東松浦郡鎮西町 |
四股名 |
松浦潟→大蛇潟→松浦潟 |
所属部屋 |
錦島→立田山部屋 |
初土俵 |
昭和5年1月場所 |
十両昇進 |
昭和11年1月場所 |
入幕 |
昭和13年1月場所 |
最終場所 |
昭和19年11月場所 |
最高位 |
小結 |
幕内在位 |
12場所 |
幕内成績 |
79勝85敗4休 |
勝率 |
0.482 |
身長 |
186cm(6尺1寸5分) |
体重 |
105kg(28貫) |
得意手 |
左四ツ上手投げ、下手投げ |
死亡年月日 |
昭和20年3月10日(現役中) |
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参考文献 |
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「あるフンドシかつぎ一代記」小島貞二著/ベースボールマガジン社 |
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「相撲今むかし」和歌森万郎著/河出書房新社 |
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「昭和の名横綱シリーズ 双葉山定次」/ベースボールマガジン社 |
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「土俵の華 五十年 昭和幕内全力士写真入名鑑」/実業の日本社 |
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