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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
唐津の人にとって、経済・文化面での、福岡・博多への志向は根強いものがある。今月は博多〜唐津、伊万里を結ぶ筑肥線(ちくひせん)の歴史をたどってみました。 |
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少し古すぎるかも知れないが、3世紀頃書かれた、『魏志倭人伝』によると、魏の人が倭(日本)を訪れるのに |
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「狗邪韓国から対馬へ、さらに瀚(かん)海(=対馬海峡)を渡り一支(いき)に至り、また海を渡ること千余里で末盧国に至る。東南陸行百里で伊都(いと)国(=糸島)へ、さらに東南して奴(な)国(=福岡)に着く」 |
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この奴国から邪馬台国までの道程とその所在地を探る、いわゆる邪馬台国論争がはじまる。 |
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時代はずっとさがって、豊臣時代、秀吉の側近だった茶人で博多商人でもあった神谷宗湛は『宗湛日記』に「天正十四年丙戌小春二十八日、上松浦唐津村を出行して、同満島より舟に乗り筑前国加布里に着、それより陸地を上り・・・」と、唐津から博多へ帰るのに、加布里までは舟を利用している。 |
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文禄・慶長の役では、豊臣秀吉は名護屋城を築き、何十万人という武士と人、莫大な軍事物資を輸送集結するのに、舟とともに、各所に残る太閤道を活用したのだろうか。 |
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その後、徳川時代には参勤交代のために「唐津街道」ができる。伊能忠敬も調査に来ており、測量日記にその足跡を記録している。 |
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時は明治に移るが、やはり海路と陸路の併用だったのだろうか。 |
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唐津を中心とした陸上交通は、明治に入り、松浦川流域を中心とした石炭鉱業の発達とともに、大きく動き出す。 |
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唐津・佐賀を鉄道で結ぼうと明治29年、唐津の草場猪之吉ほか29人の発起による唐津興業鉄道株式会社が発足、その年の10月には厳木で起工式を挙げる。 |
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爾来、幾多の問題を解決し、長崎本線に連絡したのは、明治36年12月である。その後明治40年7月に、鉄道国有法によって政府に買収され、唐津線として今日に至っている。 |
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こうして、唐津〜佐賀間は結ばれたが、依然として唐津〜博多間は不便極まりない。唐津から博多に鉄道で出るには、唐津―久保田―博多と、言わば三角形の2辺を行くようなもの。 |
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ピンク: |
唐津線 |
黄色: |
長崎本線+鹿児島本線 |
水色: |
旧筑肥線 |
オレンジ: |
現筑肥線 |
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大正に入り、唐津、伊万里の経済界では博多へ鉄道を敷設しようという声がいよいよ盛り上がっていく。唐津では草場猪之吉、伊万里は代議士 川原茂輔を中心にまとまり、一方、福岡県下沿線の有力者との提携もあり、大正5年6月、草場猪之吉、岸川善太郎氏等の発起で、鉄道免許の申請をする。その後、熱心な運動の結果、鉄道省の予定線を変更させ、大正7年10月25日、敷設認可を得るとともに、大正7年8月「北九州軽便鉄道株式会社」が設立された。 |
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唐津駅前に建つ
記念碑 |
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名称 |
北九州軽便鉄道株式会社、後に北九州鉄道株式会社となる。 |
資本金 |
550万円 |
株式募集と同時に、多年、渇望していた沿道の人々の応募が殺到し、忽ち満株となる。株主約2000名。
佐賀県側:52,000株/福岡県側:30,000株/その他:18,000株
合計 100,000株 |
本社 |
唐津市魚屋町、町田川岸に新築(後の佐賀新聞唐津支社) |
役員 |
社長 |
草場猪之吉 |
取締役 |
松尾忠二郎、高崎勝文、森田葆光、小島尚吾、松尾熊助、宮島徳太郎、青木直五郎、三島藤七、堀田政太郎、堤常助 |
監査役 |
岸川善太郎、納富陣平、松尾寛三 |
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以上は設立時の役員であるが、昭和12年 北九州鉄道株式会社が国鉄に吸収されるまでの役員は32名の多数となる。これは敷設工事が難航し、経営が安定しなかったためであろうか。福岡、佐賀、その他の財界人が混じっている。 |
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大正10年10月、唐津町明神松原、現在の大志小学校にて盛大なる起工式が行われている。 |
記念碑側面のレリーフ
左:草場猪之吉
右:大島小太郎 |
やがて、鉄道工事がはじまる。 |
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唐津・博多間53kmのうち、この鉄道の起点となる東唐津〜浜崎間は、虹ノ松原の風致を害う惧れありとの地元の猛反対があり、最初に着工されたのは、浜崎〜福吉間13kmである。この区間は、山が海岸にせまり、トンネルが多く、短い区間にもかかわらず、工事は難航を極める。2年間の歳月を要し、漸く大正12年12月に開通する。 |
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左:岸川善太郎
右:平松定兵衛 |
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工事現場で働いておられた梅田ユキノさん(梅田産業株式会社 会長の母堂)の「わたしの歩いてきた道“河のほとりで”」の一節をお借りして、当時の難工事の様子を偲んで頂きたい。 |
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そのころ、北九州鉄道の工事がはじまりました。北九州鉄道株式会社というものができ、博多と唐津を結んで鉄道を敷くことになったのです。 |
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工事はまず、浜崎、福吉間から着工されました。大正十年の秋のことでした。いまでも筑肥線に乗るとわかりますが、ここはいくつもトンネルがつづきます。海に沿って、山をくりぬいて鉄道を敷いていくのですから、たいへんな難工事でした。 |
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この工事のために、あちこちからたくさんの人が集まってきていました。朝鮮や中国からも出稼ぎにきていました。わたしが、この工事に働きに出てみようか、と父に話したとき、父が反対したのも、よその土地から人が多勢集まっている中に娘を働きにやるのは心配だということからでした。でも結局、大正十一年の暑い夏のさかりから働きに出ました。満でまだ十六歳でした。 |
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からだは、親ゆずりで丈夫でした。それでも労働はきびしく、働きに出て三日くらいは食事ものどに通りませんでした。そのころ、女子の日当は、六十銭から一円でした。 |
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えびすの鼻のトンネル工事のときは、セメントをといてコンクリートをつくるのに、崖の下の海から、十八リットル罐二つに海水を汲み、てんびんでかついで登りました。大の男でもきつい仕事でしたが、多勢で働くことはまた楽しみでもありました。 |
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わたしは覚えていませんが、石井忠夫さんの『明治・大正の唐津』という本を見ると、当時、労働に景気をつけるためにこんな歌がうたわれたと紹介されています。 |
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君みずや 鉄道工事のいさましさ |
架橋せわしき玉島川 |
隧道(ずいどう)工事の鹿家山 |
ホンに又聞こゆる |
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ダイナマイト ドン |
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かくして、最初に開通したのは、福吉〜浜崎間、以来 全線が開通するまでに、約16年間の歳月を要している。 |
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哩(マイル) |
km |
営業開始日 |
東唐津〜虹ノ松原 |
1.9 |
3.0 |
大正14年6月15日 |
虹ノ松原〜浜崎 |
1.3 |
2.1 |
大正13年7月7日 |
浜崎〜福吉 |
5.7 |
9.1 |
大正12年12月5日 |
福吉〜前原 |
8.4 |
13.4 |
大正13年4月1日 |
前原〜姪浜 |
7.9 |
12.6 |
大正14年4月15日 |
姪浜〜新柳町 |
5.6 |
9.0 |
大正14年6月15日 |
新柳町〜南博多 |
1.8 |
2.9 |
大正14年11月20日 |
東唐津〜山本 |
4.6 |
7.4 |
昭和4年6月19日 |
山本〜伊万里 |
15.9 |
25.4 |
昭和10年3月1日 |
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以上、難工事に悩まされ、資金面に苦労しながらの苦心の程がうかがえる。 |
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最大の難工事は、浜崎〜福吉間、9.1km、工費は1,851千円、浜崎〜前原間は、22.6km、3,193千円に達したと云われる。 |
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このような難工事は、即、建設費の増大を意味する。本来ならば、浜崎、虹ノ松原から松浦川を渡り唐津線の唐津駅に直結するのが常識であるが、資金面、技術面から会社にとっては不安が生じたのであろう。漸次、満島を起点にしようという空気が生まれ、満島住民の東唐津駅誘致運動と相まって、大正12年11月に、北九州鉄道株式会社と満島の東唐津駅誘致協議会の間に契約書を取り交わす。その条件は |
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「北鉄ガ其停車場ヲ(中略)満島ニ設置スルニ付 満島村所有(中略)ノ墓地ヲ無償ニテ甲(北鉄)ニ譲與スヘシ」 |
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とあり、現在の唐津ロイヤルホテル付近の墓地(旧東唐津駅跡)を急遽 虹ノ松原に移転することになるが、当時も、虹ノ松原は農林省、営林署、文部省の管轄下にあり、松原を借用できるかどうか危ぶまれていた。しかし、関係官庁との折渉も、国会議員川原茂輔氏の力添えもあったのだろう、松原の中に約3,000坪の敷地を借用できることになった。(新墓地建設の許可、大正13年2月6日) |
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ところが、「墓地移転ハ、許可ノ日ヨリ4ヶ月以内ニ完了スヘシ」というきびしい条件がつく。すでに虹ノ松原の風致問題も解決し、鉄道は虹ノ松原まで敷設されているのだから、急を要する。唐津の玄関口、東唐津駅建設のため、まさに突貫工事だったのだろう。当時の筑肥線敷設への意気込みを感じることができる。 |
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開通直後の
東唐津駅 |
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宮島家累代の墓も、このとき移転したものである。数多くの移転した墓の中には、文永の役の戦死者 荒田久吉や、松原一揆の冨田才治の首塚地蔵、また満島が生んだ関取、千田川塚、等、満島の歴史を語る墓石が含まれているという。 |
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数々の問題点、隘路を克服し、漸く大正14年6月15日、東唐津〜新柳町(福岡)が開通する。ここに、唐津市東松浦郡民の念願であった唐津〜博多間が結ばれた。その前日6月14日、福岡東中洲の九州劇場でその開通祝賀会が盛大に行われた。(佐賀新聞) |
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しかし、難工事の連続で、北九州鉄道株式会社の経営は予想外に苦しく、最終目的の伊万里までは手が伸ばせず、漸く昭和4年6月 東唐津〜山本が開通する。その後も資金繰りに奔走されていた社長草場猪之吉氏は昭和6年日本興業銀行との金融交渉で上京中に過労のため急死されたのは痛ましい限りである。 |
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繁栄していた頃の
東唐津駅の車輛群 |
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草場社長亡き後、社長不在のまま昭和6年8月、日本興業銀行から、八木弁吉氏が専務取締役として就任、引き続き昭和8年10月から、小田原盛美氏が取締役支配人として会社経営は興銀に移る。 |
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そして、昭和10年3月に、遅れていた山本〜伊万里間も開通し、着工以来13年余、全線85.4kmが完成する。 |
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開業以来、大きな事故もなく推移していたが、北九州鉄道株式会社としての終末に近い昭和11年7月9日、山本駅発伊万里行ガソリンカーが、午後6時15分頃、牟田部甲斐田踏切北方50mの箇所にさしかかった際、連日の豪雨で地盤がゆるんでいたため線路下横の岩盤が崩れて、車は3mくらいの高さから松浦川の濁流に転落して、乗客の死者7名、重軽傷9名、行方不明3名を出すという大惨事をおこした。消防団員数百名が出動し、地元民と協力して救助捜索にあたったが水勢強烈で活動思うにまかせず、13日に至って小宮村佐里小学校長の遺体が発見され、残る2人はとうとう不明に終わったという大悲惨事があった。 |
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北九州鉄道時代の
ガソリンカー |
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念願の唐津〜博多間が鉄道で結ばれ、白砂青松の虹ノ松原、東の浜と、東唐津駅は観光スポットとして脚光を浴びる。 |
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北九州鉄道株式会社としても、福吉の海岸、大入の海水浴場でいろいろのイベントを計画する等、乗客の誘致に努め、また松原内の海浜院 松屋旅館等も賑わいをみせ、北九州鉄道株式会社自身も、東唐津駅の北側にホテルと食堂を建て、平田きくさんに経営を委託していたが、興銀の時代になり、内藤善五郎氏が受け継いでいる。 |
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一方、唐津市も、初代市長 河村嘉市郎氏は観光に力を入れ、昭和10年鏡山の観光道路の建設、昭和12年には唐津ゴルフ場の建設、また昭和10年、国の特別融資の力を借りて、唐津市営の唐津シーサイドホテルが誕生している。 |
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このように観光唐津の芽が萌え出つつあったが、日本は徐々に戦時色を深め、戦争へ突入してしまう。 |
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そして、北九州鉄道株式会社の経営難もあるが、当時の国の政策もあり、昭和12年10月1日、日本国有鉄道に吸収される。 |
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北九州鉄道株式会社は、本社を魚屋町から虹ノ松原の西端に移転していたが、この国鉄移管とともに本社を船宮に移し、「北九州鉄道自動車」と称し、自動車バス部門を経営していた。 |
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その後、昭和16年、北九州鉄道自動車はその全部を昭和自動車に譲渡して、北九州鉄道株式会社設立以来23年間の歴史を閉じることになる。 |
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現宮島商事(株)
元北九州鉄道自動車(株)
本社社屋 |
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因みに、北九州鉄道自動車の船宮本社は、その後昭和自動車が所有していたが、昭和18年(?)頃、株式会社宮島商店が譲り受け、現在、宮島商事株式会社の本社として現存している。 |
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設計は、中島設計事務所、施工は東唐津の山口栄次郎、屋根瓦は唐津理想瓦、(戦時下のセメント瓦)、屋根は寄棟という。 |
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何とも言えない、歴史の流れと因縁めいたものを感じる。 |
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以上のように、筑肥線は、北九州鉄道株式会社として、大正10年着工以来、大正14年に福岡と結ばれ、昭和12年10月1日国鉄へ移管され、昭和58年3月、電化、福岡地下鉄へ乗り入れて、今日に至るまで80数年。 |
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筑肥線電化開業
記念入場券 |
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この筑肥線が唐津市及び周辺の住民の生活のために、はたまた地域社会に貢献した功績は、はかり知れないものがあろう。 |
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私たちは、この鉄道敷設のためにその先頭に立って献身的な努力をされた、草場猪之吉、岸川善太郎氏をはじめとする先人たちへの謝恩の念を忘れてはなるまい。筑肥線の車中から、すばらしい景色を愛でながら、あらためて肝に銘じるこの頃である。 |
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参考文献 |
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『唐津市史』 唐津市史編纂委員会編 |
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『末盧国』 満島沿革史 東唐津駅始末記(1)〜(5) 善 達司 / 芸文堂 |
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『佐賀県の事業と人物』 酒井福松、村川嘉一 編 / 佐賀県の事業と人物社 |
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『明治・大正の唐津』 石井忠夫 著 / 唐津商工会議所刊 |
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