私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 戦後60年。
 終戦時、旧制唐津中学校4年生。
 大村の第21海軍航空廠で終戦の玉音を聞く。
 15歳の少年だった数ヶ月の生活を、自ら書き残した日誌によってたどってみました。

一、トマトの味
 昭和20年8月15日。
 戦争は終わった。私たち唐津中学4年生は、大村の第21航空廠に勤労動員、戦争に勝つことを信じながら航空機の生産に汗を流していた。
 まさに青天の霹靂。敗戦の詔勅を聞かされる。呆然とする15歳の少年は、命ぜられるままに翌16日、大村の竹松駅から早岐、久保田と乗り継ぎ、飲まず食わずのまま唐津にたどり着いた。
 暑い日だった。だだっ広い我が家に入った。誰もいない。物音ひとつしない。庭に出ると、突然、空腹感が襲ってきた。裏の畠の真っ赤に熟れたトマトが眼につく。思わずもぎ取り、ガブリ。香りがツーンと鼻をつき、酸っぱい甘さが歯に沁みる。トマトはやけに温かった。漸く、ひと心を取り戻しほっとする。家族はどうしたのだろうかと、親しくして頂いた隣のおじさんを尋ねると、母をはじめ家族は米軍が上陸するので、相知へ逃げていったという。夕方、涼しくなって、折り返し母を追い、歩いて相知へ向った。
 今年も暑い。真っ赤なトマトを食べる毎に、60年前のみずみずしい味覚と、勤労動員生活の苦渋が重なりあって蘇ってくる。
二、勤労学徒動員
(一)佐世保海軍施設部へ
 昭和16年12月8日。日本は「西南太平洋上ニテ、米英両国ト戦斗状態ニ入ル」。戦争が拡大するにつれ、国内の労働力が不足してくる。このため、中学生は、田植え、稲刈、麦刈と農繁期には泊まり込んで応援していたが、戦局、急を告げる昭和19年以降は、国民動員計画により、常時要員のほとんどは、学徒動員に頼っている。
昭和 19年 8月23日 勅令第518号、学徒勤労令
20年 3月 6日 勅令第94号、国民勤労動員令
20年 3月18日 「決戦教育措置要綱」、昭和20年4月1日から1年間授業停止。
 これらの法令によって、私ども唐津中学3年生は、昭和19年8月11日から、佐世保海軍工廠施設部へ勤労動員、現在のハウステンボスの近くの南風崎で土地造成に数日間従事したあと、佐世保へ移り、鴛の浦(現在、九十九島遊覧の基地となっている鹿子前)でも土木工事に従事した。約4ヶ月の勤労を経て、同年12月17日に動員解除となり唐津に帰ることができた。
(二)大村 第21海軍航空廠へ(註)
 昭和20年の正月を唐津で迎えた私たち唐津中学3年生は、2月20日、大村第21海軍航空廠への動員命令が下った。この大村の航空廠は、唐津中学の1年先輩、4年生がすでに航空機生産に従事中であり、昭和19年10月25日には、米軍の空爆を受け、先輩2名が死亡、尊い犠牲者となられた。その大村への動員である。思わず緊張した。
 到着の翌日から、宣誓式、身体検査、工場見学、一年前10月の空爆に遭い、工場は宿舎から約4kmの萱瀬に疎開していた。
 3月14日、鋼材係に配属され張り切る。飛行機の部品作りを工員の遠山さんから指導を受ける。まずは、ハンマーを使っての鉄片の切断。ヤスリでの仕上げの訓練。ハンマーで手を打ったり、ヤスリではなかなか水平に仕上がらず、その難しさを痛感する。
 午前7時から、午後7時までの勤労、山道の通勤、少しずつ疲労も加わってくる。戦局もきびしさを増す。
 苛酷な労働、生活に耐え、自らの志気を鼓舞しようとでも考えたのか、昭和20年2月27日から8月16日まで、「動員日誌」を書き残している。
 その「動員日誌」から。
 3月27日(火)晴天(B29、40機来襲)
 「・・・空襲のサイレンの音、防空壕に退避。ドドッ、高射砲の音、機関銃の音に交じって爆弾の音、ザァーとこまく(鼓膜)に響く。4回にわたる波状攻撃、ひとしきり鈍い爆音空の事は皆目解らない。皆静まってしまう。・・・」
 この日は、夜も空襲警報、警戒警報と再三にわたり、ゆっくり眠れない。
(三)大村における卒業式
 翌、3月28日(水)晴天(4年生卒業式、工員俸給日)
 「午後、親切に身をつくしてくれた4年生の卒業式。校長先生、はじめ横井先生から種々話しあり、在校生総代として祝辞、形どおりだが、滞りなく終える。一生懸命努力したつもりだ・・・。」
 戦時中、工場宿舎、食堂での卒業式。終了後は再び警戒警報とまさに緊張裡の卒業式であった。
 昭和18年1月公布の「中等学校令」によって中等学校の修学年限が5年から4年へ短縮され、4年で卒業された先輩たちは、中学1年で開戦、4年で卒業、在学4年間の青春は全くの戦時下、しかも動員中に2名が犠牲になられる、という最も恵まれない年代と、同情を禁じえない。
 この日の卒業生の方は、すでに軍関係の学校、上級学校と進まれており、大村に残ってられたのは、30〜40名だったように記憶する。
(四)特攻機、爆装
 昭和20年4月1日。
 授業は無い。文部省は、昭和20年、授業停止を決定している。それでも、4年へ進級する。
 空襲に危険を感じながらも、動員日誌は「ぐっすり眠った。疲れた。防空壕を掘った。」等々、自らを励まそう、頑張らねばとの字句が眼につく。その中に、小磯内閣総辞職、鈴木貫太郎内閣誕生。ルーズベルト死去を伝え聞き、15歳の少年は、日本は勝つと絶対に信じながら働いている。さらに
「4月19日、木曜、雨後晴模様
朝、特攻機爆装、漸く終わる。
4月20日、金曜、晴風あり。
鋼材部品入った爆装工事を若干残して殆ど完成した・・・特攻機も沖縄の空に羽ばたき敵空母に体当たりした・・・。後で悔いぬ様頑張らん。」
 今、こうして、古い日誌を読み返すとき、その時、どんな作業をしていたのか全然思い出せない。恐らく、特攻機の爆薬をいれる箱を作っていたのだろう。戦争という異常な雰囲気の中では、自爆する装置の作業をしているという意識に、少しでも違和感が浮かんでこなかったのだろうか。今、この作業のことを考えるとき、戦慄と罪悪感を覚え、心は痛む。
日誌に書き残した
戦闘機のスケッチ
(五)発診腸チフス発生
 宿舎は、大村市植松第3宿舎第2寮7号室、5〜6名の合宿生活である。食事は勿論、大豆粕の御飯、ときどき、ビワ(茂木のビワだったのだろう)。パンの配給があると喜んだ。しかし最も苦しかったのは、睡眠不足。12時間の労働、1時間を越す通勤時間、夜間の空襲警報で睡眠は寸断される。その上、ノミ、シラミに悩まされるのだから、時間があれば眠った。
 そのシラミから伝染したのだろうか、宿舎で発診腸チフスが発生する。
 「5月24日(木)晴
 明日より隔離との事、変な気持。気味が悪い。
 発診チフス発生、ノミ・シラミ退治のため隔離。
 5月25日(金)晴
 朝より一日中熱湯消毒で過ごす。順調にいく。(全員の毛布を大きな湯槽にいれ、蒸気で消毒した。)毛布の絞りが大変、皆良く頑張った。」
 幸いに大事に至らず、感染は防げた。翌26日から出勤している。
(六)沖縄玉砕
 「大本営発表 昭和20年6月25日
 沖縄戦場方面の我官民は敵上陸以来島内知事を中核とし挙げて軍と一体となり皇国保持の為始終敢闘あり。・・・」
 との玉砕の報道が流れる。
 翌27日、私たち機械工場の数名は、ちょっとした緩みがあったのだろうか、上司の逆鱗に触れ、猛烈な制裁を受けた。その理由が何だったか、今や全く記憶にはない。ただ、その後はがむしゃらに働き、一目散に帰り、風呂にも入らずただ寝るのみ。
 今考えると、戦局の終末的な悪化により廠内にある苛立ち、焦りが生まれつつあったのだろうか。
(七)長崎 原爆投下
 「8月9日(木)晴
 (機械の操作中だった。)パッとヒューズが断(き)れたかと思われる。光が眼を射ってから30秒、いや1分位あったかも知れない。耳をつんざく爆風?電気工事の事故とも思われたが、よく考えてみると新生爆弾なり。
 工場を退場するとき、新型爆弾について注意あり。爆風と燃焼液とに威力があるから万力台の下に入れ、裸で作業せぬよう・・・」
 退場時にも、この新型爆弾のことで噂が飛んだ。
 長崎から大村まで直線距離で20km。
 ピカッから、ドンと爆風を受ける。ちょうど軽く耳を叩かれた程度の衝撃だった。防空壕に入ろうとして空を見るとき、大きい白い雲を見たような気がした。
 ただ、宿舎に帰る途中、火傷した手を抑えながら、恐らく、歩いて帰られたであろう被災者の人と会っている。
 当時は、放射能の恐ろしさには全くの無知。航空廠からは長崎の被害状況は、われわれには全く知らされていない程の報道管制だった。ただ、投下後は、米国機が一機でも飛来すれば、総員退避がかかった。
(八)昭和20年8月15日
 「8月15日(水)雨後晴
 正午 停戦の詔勅下る。
 午後7時、作業止め、本部前集合、主任より停戦の詔勅下る。詳細不明の事、始め何だか解らなかった」
 中学4年、15歳、ただ勝つことだけしか教えられていない少年には、判断の仕様がなかったのが、偽らざる心境であった。
 「8月16日(木)雨後晴
 曇った空は我々の気持ちを益々曇らせる。工場へ運ぶ足も重い。朝礼時、谷貝大尉より訓話、強く胸に響く。手入れする機械も元気なく立っている。我々日本人も、各々生きる道を選んで最善を盡しつつ進まねばならぬ。午後、洗濯、定時(午後5時)退場」
 ここで、私の大村動員日誌は終わっている。
 8月16日夕、宿舎に帰ったら、動員学徒は「直ちに帰唐せよ」との指示があったのだろう。先生引率のもと大村線、竹松駅から乗車する。列車は満員のスシ詰め。アメリカ軍が進駐してくるので、それぞれ実家に帰る人たちで車中はごった返していたが、長崎本線、唐津線と乗り継ぎ、唐津に辿り着くが、実家は空っぽ・・・トマトを齧ることになる。
 戦争の体験は人さまざまだろう。
 尊い生命を捧げられた人々、そして残された人々・・・
 私にとって、昭和19年8月からの1年間の青春の辛苦は、その後の人格形成に何をもたらしただろうかと静かに考えたくなるこの頃である。
 ただ、「戦争はあってはならない」と誓いながら、15歳の少年の1年間をありのままに語らせて頂いた。
《註》「第21海軍航空廠」
大正 8 4 佐世保海軍工廠、造兵部、飛行機工部、設立。
昭和 9 6 佐世保海軍工廠航空機部として独立。
13 9 佐世保市、日宇工場完成。
16 10 大村市に第21航空廠設立。日宇工場は分工場となる。
18 12 零式水上観測機、零式練習用戦斗機の製造組立。
新式艦上攻撃機「流星」の製造組立。
19 10 中国成都から、U.S.A. B29 100機来襲。
工場壊滅。
工場、萱瀬に疎開。
20 8 終戦。
《追記》
 この会長コラムを書き終えた、7月24日(日)。
 旧制唐津中学の1年先輩、中野寛さんにご案内役をお願いし、大村を訪ねた。
 唐津から車を駆って1時間半。真夏の太陽に輝く大村湾を一望、60年の歳月を省みながら大村へ。
 まずは、旧第21海軍航空廠跡地、防空壕の跡地に建てられている慰霊塔へお参りする。
 合掌。謹んで御冥福をお祈りする。
 碑文、案内図を先輩と2人で見入る。
 中食の“角ずし”に舌鼓をうった後、第21海軍航空廠奉賛会:会長 神近義光氏を訪ね、昭和19年10月の空襲当日の生々しいお話、そして毎年盛大な慰霊祭が行なわれていること等のお話を承り、また貴重な文献まで頂いた。
 戦後60年、その歳月の重さ、問題の深さを感じつつ帰途に着く。
工場のあった萱瀬地区 第21海軍航空廠付近
↑第21海軍航空廠・陸軍46連隊・海軍航空隊
使用敷地/色分図より
(地図製作者:神近義光氏)
←『慰霊塔』と神近氏。
広報おおむら2005年8月号より。
『広報おおむら』の内容は大村市のHPからご覧になれます。
http://www.city.omura.nagasaki.jp/
 参考文献
「集成学徒勤労動員」 福間敏矩著 / (株)ジャパン総研
「事典昭和戦前期の日本」 百瀬孝著 / 吉川弘文館
「郷土史誌 末盧国」」 
昭和55年9月20日、昭和56年3月20日刊  旧制唐津中学学徒勤労動員
                       岩松要輔著 松浦史談会編 / 芸文堂