私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 最近、日本語が乱れている、日本語を大切にしようという雰囲気があります。
 敬語、謙譲語、丁寧な言い方 等々・・・
 そんな中で、気にかかる言い方もあります。

 「乾杯の音頭をとら(さ)せて頂きます」
 ちょっと改まった挨拶で、「・・・させて頂きます」という言い方が多用されてから、どれくらいになるだろう。
 断ります、というところを「断らせて頂きます」と言い換えると、何となく柔らかくなるものの、時には、慇懃無礼(いんぎんぶれい)にも聞こえてくる。
 特に、政治家・官僚の人たちが、丁々発止と議論している中で、「・・・させて頂きます」では迫力に欠ける。
 “○○党をブッ壊す!”と言えば力がこもる。
 “○○党を壊させて頂きます”ではサマにならない。
 もの好きにも、退屈な話を聞きながら、この人「させて頂きます」を何回連発するのだろうと数えたことがあった。5分間で5回くらいだったかな。
 「させて頂きます」が気にかかっていた数年前、この語法について、司馬遼太郎がこう語っているのを読んだことがある。
 「『おかげさまで、元気に暮らさせて頂いております』
 こんな語法は、・・・私見で恐縮だが、北陸・東海・近江などの眞宗地域の語法だと思っている。
 如来に生かさせて頂いている、仏恩のおかげで、先月も旅行させて頂いて、病気もせずに帰ってきた、というふうな気分から出ていて、如来とか仏恩とかが省略されているだけのことである。
 私は、この語法は、近江門徒が大阪の船場で大商人として形成されてゆく過程で根づき、ひろまったのではないかと思っている・・・。
(ひとりふたり第40号 1991・9・15刊)
 近江の人はほとんどの人が、眞宗門徒である。子供の頃からお寺で説教を聞き、「阿弥陀仏如来のおかげでご飯を食べさせて頂いている。仕事をさせて頂いている」と、朝な夕な阿弥陀仏如来の前で、掌を合せていたことだろう。
 このような、生活・仕事・職業に対して、阿弥陀仏への報恩、感謝の念を失わぬ宗教的、精神的基盤が、近江商人の礎なのだろう。
 大阪は、眞宗中興の祖、蓮如上人が、坊舎を建てたことから始まる。本願寺が山科から石山に移ってから、多くの人々が集まり、寺内町が形成され発展する。
 織田信長が、この本願寺を攻撃し焼失させた後、豊臣秀吉が大阪城を築き、大阪を経済の中心とする流通機構を整えていった。
 全国の物資の集積地としての機能は江戸時代に継承された。この大阪の商業の中心が、「船場」である。
 大阪が商業で栄えると、全国各地から商人が集まってきた。大阪商人の初代の人々は、それぞれ出身地の習慣を守っていた。特に近江商人は呉服類を取り扱う人が多く、且つ、眞宗の信者として、本願寺の鐘の音とともに一日の仕事を始める、といった宗教感覚をもって、商業に勤しんだのだろう。
蓮如(1415-1499)
異宗や他派におされていた浄土真宗本願寺を中興し、現在の礎を築いた。
←天秤棒を担いで商売をした近江商人。
 近江商人語録、キーワードを拾ってみる。
 「私ハ勤ムルニ於イテ眞ナリ」  
 商人に必要なのは才覚と算用。しかし、近江商人は、投機商売、不当競争、売り惜しみをせず、本来の商活動に励み“勤”めたからこそ、その結果として利がある。
「三方よし」
 売り手よし、買い手よし、世間よし。 
 売り買いだけの合意ではなく、社会貢献を求める。企業の責任を果たそう。
「武士は敬して遠ざけよ」
 近江商人は権力に依存して利を得ることを潔しとはしなかった。
「しまつして きばる」
 “しまつ”は節約、“きばる”は働く。
 常に奢りを戒め、節度を保ち、商売に精励せよ。
 近江商人は、江戸中期には、既に複式簿記を採用していたという。常に経営状況を把握し、佛への信心を忘れず、現代社会にも通ずる確固たる職業倫理観をもち、経営にあたっている。
 今や、科学技術の発展は、経済そのものを大きく変革させようとする。私たちは、質素節約、刻苦勉励の労働観に、何かをプラスせねばならないだろうか。価値観は多様化する中、われわれ一人ひとりが、それぞれ人生観、労働倫理観を真摯に求めなければならない時期なのだろう。