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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
11月、秋たけなわ。
秋爽気。稔りの秋です。
新穀も出回り、お米が一番おいしい秋です。
11月23日は勤労感謝の日でもありますが、宮中では新嘗祭(にいなめさい)が厳粛にとり行われます。 |
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稲刈り−勤労奉仕 |
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「稲を刈るときは、腰を下ろして、水平に刈って下さい。切り株が水平になるよう。鎌は、まわしながら刈ると楽ですよ」 |
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中学1年生の秋、はじめて農家へ勤労奉仕へ行った時、このように稲刈の要領を指導してもらった。 |
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3泊4日、ひと世帯に数名ずつ組になって、主に応召軍人家庭への勤労奉仕であった。はじめは、もの珍しさも手伝って20〜30分は続くが、徐々に疲れが出て雑な刈り方になるのを思い直しながら頑張った。 |
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夕陽が落ちる頃まで働き、お風呂を浴びた後の夕食の白米御飯が“おいしかった”こと。先輩との団欒の中で、いろいろのことを教えてもらったこと 等の思い出とともに、稲刈りの“ザクッ”と鎌をいれたときの感触を、私の掌は、かすかながら今なお記憶している。 |
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新嘗祭(にいなめさい) |
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秋馬肥。澄み切った秋空に稲刈機のエンジンの音が快く響いていく。 |
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復元された水田跡 |
毎年、春と秋には日本稲作発祥祭として、田植祭と収穫祭が行われています。 |
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唐津の菜畑(なばたけ)というところで、日本で最古の水田跡が発見された。「瑞穂の国」日本の発信地かもしれない。 |
古事記は「天照大神が、高天原にある稲穂をニニギノミコトに授けてこの国にもたらし、種を播いて成熟させた」と伝える。 |
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爾来、稲は天つ神からの授かりもの。豊かな太陽の光、土地を潤す降雨の自然の恵みと、自然の脅威は神によって守られ、秋にはたわわな稲穂が頭を垂れる。 |
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この稲作の収穫への感謝祭が、“村の鎮守の神様のめでたいお祭り日”となる。 |
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このような祭祀を司る最高責任者としての天皇が、「その年の新穀を天神地祗に奉り、感謝し、天皇自らも祖神とともに食することによって、国魂(くにたま)を身につけ統治できる」このお祭りが “新嘗祭(にいなめさい)”である。陰暦11月第2の卯の日に行われる。 |
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新嘗祭のはじまり |
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この新嘗祭の最も古い記録として日本書紀に、皇極天皇元年「11月16日、天皇は新嘗祭(にいなえ)を行われた。」とある。この皇極元年11月16日は、西暦642年12月12日、干支は丁卯にあたり、すでにこの頃から、陰暦11月の第2の卯の日に新嘗の神事が行われている。 |
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また、万葉集には、新嘗祭にまつわる和歌が数首あるが、その中でひときわ情緒溢れる一首。 |
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にほ鳥の葛飾早稲(かつしかわせ)を贄(にへ)すとも
そのかなしきを外(と)に立てめやも |
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(にほ鳥の)葛飾早稲の稲を神にお供えする時でも、愛しい人を家の外に立たせたままにするものですか。 |
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新嘗祭には、女性は潔斎してお祭りをして男性は家の中に入れなかったのだが、愛しい恋人を立たせたりはしないですよ。あなたとは特別ですよ、との恋心を歌いあげる。当時は民間でも新嘗のお祭りをしていたのだろう。 |
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もう一首、天平4年の11月25日(この日も卯の日)、新嘗会の御宴で詔に応えた歌。 |
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天地と相栄えむと大宮を
仕へ奉れば貴く嬉しき |
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天地とともに久しくお栄えになるようにとこの御殿にお仕え申し上げると、ありがたくも嬉しいことです。 |
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と 宮廷讃歌する、国をあげての一大イベントお祝いであった。 |
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新嘗祭の神事 |
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平成16年の秋、はからずも納税意識の普及に尽力したことにより国税庁長官賞受賞の栄に浴し、受賞式の後、皇居内の見学を許された。 |
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二重橋を渡り、太田道灌築城の際の濠など、今なお武蔵野の面影を残す中にたたずむ宮中三殿等を散策させてもらった。宮内庁の方から、 |
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「ここが神嘉殿です。毎年、新嘗祭の神事が行われます」 |
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との説明を受けた。 |
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大和朝廷はじまって以来連綿と続いている新嘗の神事は、現在も二日にわたりおごそかに神秘的ともいえる儀式が行われている。 |
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ある閣僚の方が、平成13年の新嘗祭に陪席された手記を紹介いたしましょう。 |
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■皇居での新嘗祭の神事に陪席させて頂きました |
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23日は勤労感謝の日ですが、私が子供の頃は暦の上でも新嘗祭と呼んでいたことを覚えております。新嘗祭は天皇陛下がその年の新穀を天照大御神にささげられる10月17日の神嘗祭のあと、皇居の中の宮中三殿に隣り合わせた神嘉殿(しんかでん)という建物に天照大御神はじめ八百万の神々をお招きになり、その中で神々とともに新穀を共に召し上がるお祭りで、数々の皇室行事の中でも最も重いものとされ、神代から続いている唯一の行事なのだそうです。私もお招きを頂きましたので、謹んで参列させて頂きました。 |
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■赤々と燃える篝火(かがりび)、神秘的な夕の儀と暁の儀 |
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夕の儀は午後6時に始まります。神嘉殿の庭に入りますと広い庭の四箇所に設けられ白い装束の掌典の職員が身の丈ほども積んだ薪を燃し続ける庭火と呼ばれる篝火が赤々と燃えております。やがて松明の灯りに導かれ純白の装束をお召しになった天皇陛下、皇太子殿下が神嘉殿にお入りになり、篝火に折々照らされる庭に座った楽師が神楽歌を歌い続ける中を二時間の神事が続けられます。 |
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約三時間の間を置いて深夜11時から午前1時まで同じく暁の儀が行われます。これは、神々に夕食を差し上げ、お泊まりを頂き、そして朝食を差し上げるということだそうです。私は折角の機会ですから両方に出席させて頂きましたが、何とも神秘的な儀式でありました。 |
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■農業は国の基、全国からの献穀で醸される濁り酒 |
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終わって私達参列者も陛下が神々と共に召し上がった白酒(しろき)、黒酒(くろき)という濁り酒も頂戴しましたが、改めて農業の神、豊穣の神としての日本の神々の重さを感じました。私も地元で俺のところは何年前に米を献穀したと自慢げなお話を伺ったり、田に献穀記念の碑が建っていたりするのを見たことを覚えていますが、この新嘗祭で用いられる米や栗は陛下のお手植えの米と全国の篤農家から献穀されたものでありまして、全国の稔りをこのお祭りに結集しているのです。 |
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日本の伝統の秋祭りはまさに豊作を感謝するお祭りですが、新嘗祭はその中心にあるお祭りだということを改めて感じました。勤労感謝の日といってしまったために、本来のいわれが不明確になってしまった感じがありますが、閣僚としてお招きを頂いて農業は国の基という原点を改めて認識したものです。 |
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天皇陛下と稲作 |
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現在も皇居内の水田にて、天皇陛下自らの手で稲作を続けられています。 |
天皇陛下は、我が国の農耕文化の中心である稲作について、昭和天皇のお始めになった行事をお引継ぎになりました。春には種籾をお播きになり、初夏に田植えをなさり、秋には稲刈りをなさっています。種籾は、平成元年から前年まで毎年収穫されたものと、新しく独立行政法人農業技術研究機構作物研究所(旧農林水産省農業研究センター)産のものを播かれております。 |
宮内庁HPへ→http://www.kunaicho.go.jp/ |
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勤労感謝の日−新嘗祭に因んで− |
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11月23日は、昭和23年に国民の祝日が定められた際「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨で、勤労感謝の日と定められた。 |
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戦前から、11月23日は新嘗祭で祭日だったことから、この日は新嘗祭を踏襲していることは明らかである。 |
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おたがいの勤労に感謝しあう。多くの方々のおかげで、ともに生活できることを感謝しなければならない。とともに、「みづほの国」に生を享けたものとして、丹誠を込めて育てられた稲、お米をはじめとする食べ物が食膳に運ばれるまでに、多くの人の手を経てきたことに想いをいたし、頂きたいものである。 |
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これこそ「食育」の原点ではないでしょうか。 |
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参考文献 |
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「万葉集を知る事典」 桜井満 監修 / 東京堂出版 |
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「萬葉集〔日本古典大系(第1期)〕
高木市之助、五味智英、大野晋 校注 / 岩波書店 |
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「古事記」 次田真幸 著 / 講談社学術文庫 |
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「日本書紀」 宇治谷孟 著 / 講談社学術文庫 |
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