私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 一衣帯水の間にありながら、日本の中国、朝鮮半島との“おつきあい”は、どうもうまくいかない。これらの国とは有史以来、いやそれ以前から往来しているだろうに・・・
暴に報いるに暴を以ってせず
(一) 暴に報いるに暴を以てせず
 ある会合の席でのこと、会議も終わり、雑談に移り、たまたま東アジア、中国に及んだ。
 もと陸軍大尉の先輩いわく、
 「やはり中国は懐が深いよ。第二次大戦直後、ときの中国、国民政府の主席蒋介石は、『暴に報いるに暴を以てせず』と宣言し、降伏した日本陸軍を無事に復員させてくれた。他の国ではこうはいかないだろう」
 かねてから、この先輩から、幾千の兵を戦乱の中国から無事、帰国させるまでの苦労の程を聞いていただけに、この言葉には実感がこもっていた。
 昭和20年8月15日、昭和天皇の日本国民に対するポツダム宣言受諾の詔勅のあと、蒋介石は次のように演説する。
 「われわれは日本に対し決して報復を企図すべきではない。ましてや、無辜(むこ)の人民に汚辱をくわえるべきではない。『暴に報いるに暴を以てする』ことは、『仁義の師』の目的に反する」
 この演説をうけて、8月27日、中国軍副参謀長、冷欣中将と、日本軍、岡村総司令官の間に、
 「いっさいの接収事務は蒋委員長のために行うこと、日本国は共産党軍に降伏することなく、国民党軍が進駐するまで日本軍がその占領地を確保すること」
 との合意が成立した。
 日本軍降伏後の中国において、蒋介石の国民党軍と、毛沢東の中国共産党軍のいずれが、日本が占領していた土地に進出するかは、中国の将来を左右する重大な問題であった。
 その意味では「暴に報いるに暴を以てせず」の言葉は、蒋介石の極めて高度な政治判断があったかもしれないが、当時の日本にとっては、まことにありがたいことであった。
(二) 怨に報いるに徳を以てす
 「暴に報いるに暴を以てせず」、「仁義の師」とは、長い間、漠然と論語のどこかにあるのだろうと思っていた。しかし、論語の中には、これに類するものはない。逆に憲問篇には、
 ある人曰く、「徳を以て怨に報ぜんは如何(いかん)」
 子、曰く、「何を以て徳に報ぜん、直(なお)きを以て恩に報じ、徳を以て徳に報ぜよ」
 とある。
 孔子は怨(悪意)に対しては、直(公平無私)で報いよ、是々非々で対処しようとの考えのようだ。
 しかし、「暴に報いるに暴を以てせず」と同じ意味の「怨に報いるに徳を以てす」と云ったのは老子である。
 「無為を為し、無事を事とし・・・・・・怨に報いるに徳を以てす」
 「無為をわが振舞とし、無事をわが営みとし・・・・・・怨に報いるに徳をもってする」と説いている。
 孔・老は、全く正反対である。
 孔子は、怨にはそれなりに応報せよという。
 老子は、淡々とおのれにとらわれず、徳を以てせよと説く。聖書マタイ傳の「右頬を打たば、左も向けよ」を想い起こさせる。
 両者の人生観の差異なのだろうが、蒋介石の言葉は、われわれは孔子、儒教の語と考えがちだが、むしろ老子の思想を基盤とした宣言なのだろう。
(三) 徳に報いるに徳を以てす
 中国の歴史は長く、重い。
 神話の時代を経て、中国の有史時代は始まる。
 夏、殷、周、春秋戦国時代から、秦の始皇帝の中国統一、さらに前漢、後漢、続いて魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の三国時代、西晋(邪馬台国)・東晋、南北朝を経て、隋(聖徳太子の時代)、唐(奈良時代)となり、中国の文化は花開く。さらに宋、元を経て、明、清へ、漸く中華民国、第二次大戦を経て、中華人民共和国となり現在に至る。
 中国最初の王朝、「夏」の時代はBC2050〜1550と云われるから、その歴史は遡ること、実に4000年を超える。孔孟、老荘等の百家争鳴の春秋時代からでも3000年の歳月にもまれてきた中国の思想は、孔子の儒教の他に道教、佛教等を綯い交ぜながら熟成されてきたのだから、「怨に報いる」にあたっても、その対応もさまざまなのだろう。
 さらに中華人民共和国は、社会主義社会の国家として60年余り、多くの社会主義国が衰退する中で、ひとり、繁栄を続ける。こんな中国の全貌を理解するのは至難の業だろう。しかし、われわれは客観的、冷静に、日中両国の歴史を学び、相互の理解を深め、考え、怨に報いる・・・ではなく、「徳に報いる徳を以てす」関係を樹立すべく、粘り強く努力せねばなるまい。
参考文献
    儒教三千年 陳舜臣 著 朝日新聞社
    世界の名著 3 論語 貝塚茂樹 訳 中央公論社
    中国古典選 11 老子 下 第63章 福永光司 著 朝日新聞社