私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 今年も暑い夏がめぐってくる。
 昭和ヒトケタ世代の私どもにとって、戦時中の青春の日々は今なお鮮明に思い出される。
ハウステンボス、九十九島
 中学3年の夏、昭和19年8月11日 未明。
 むし暑い夏の夜だった。昨夜から、ぐったりしていた弟を、蚊帳の中で見守っていた母が思いつめたように、
 「傳チャン、病院に行って薬を買って来て・・・」と云う。
 子供心に、事の重大さを感じとり、家を飛び出す。
 灯火管制のため、真暗闇の水主町、大石町の街を駆け抜ける。自らの下駄の音だけが、カランカランと鋭く響く。2キロ近く走り続け、津和崎病院に着く。病院の薬局だけが、かすかに灯がともっている。用意してあった薬袋をもらうと、すぐ家に引き返した。
 そのあと、すぐお医者さんがみえたが、弟、恭四郎は、四歳数ヶ月、童顔のまま、あっけなく、息をひきとってしまった。
 兄、傳兵衞は軍隊、叔父、庚子郎は不在。母とわれわれ子供だけが、枕もとで弟を見送った。
 2年前に夫(父)を亡くし、すぐ、末っ子(弟)が後を追った。不安な戦時中、引き続く不幸に、いかに気丈な母とはいえ、さぞや心細かったことだろうに、と今なお心が痛む。
 その日(8月11日)の朝は、私たち唐津中学(旧制)3年生は、はじめて唐津を離れて長期の学徒動員で、佐世保市南風崎(現在のハウステンボスの一部)の佐世保海軍施設部へ出発する日だった。すでに衣類その他、身の回り品を準備していた。
 しかし、残念ながら出発できない。担任の先生に葬儀をすませるまで数日間の休暇を頂くべく、国鉄、唐津駅へ向かった。
 夏の朝は早い。集合時刻より、かなり早く着いたのだが、担任の先生はすでに駅舎の前で待っておられた。
 「おはよう、宮島君、はやいね」
 「実は、弟が急に亡くなりました。数日遅れていいですか」
 「そうか、可哀想に・・・。お母さんによろしくね」
 その先生は今は亡い。チョビ髭を生やした小柄で温厚だが、厳しい先生だった。
 こうして友人たちに遅れること、数日、南風崎の勤労学徒の現地に合流し、真夏の炎天下、山を崩し、トロッコを押し汗を流した。
 その数日後、急に転勤を命じられ、底の深い貨物船(土砂の運搬船)に乗って、早岐瀬戸を経て、佐世保軍港の西、赤崎に上陸、峠を越えて鴛之浦(おしのうら)の宿舎に入った。ここでも、海軍施設部の鴛之浦、現在の鹿子前の港近くで土地造成の作業に従事した。約4ヶ月後、12月17日、一時復学した。
佐世保海軍施設と鴛之浦の場所
 私たちが汗を流し造成した南風崎の土地は、翌年の昭和20年3月から海軍予科兵学校(海軍兵学校、第78期)の校舎となり、奇しくも私たちの同期生たちが入学し、海軍士官となるべく、学習、訓練の場となった。終戦後は、外地からの引揚げ者の一時寄留宿舎となったと伝え聞いている。そして、今はハウステンボスへと変身する。
ハウステンボス
 また、鴛之浦の現地鹿子前港には、何度か訪れるが、なかなか特定できない程変わっている。恐らく現在の鹿子前港から数10メートル手前付近だったろう。ただ、赤崎小学校の正面にあった宿舎の跡は、住宅地となっているが、石段、石垣には当時の面影が偲ばれた。
佐世保市鹿子前町:西海パールシーリゾート
 14〜15才の少年、戦時中とはいえ、お国のためにと、無心に働いた跡地は、いずれも、今やレジャーの中心地。ハウステンボス、九十九島へと観光の度毎に、4才の弟の面影と、戦時下の数ヶ月の辛苦が重なり、どうしても芯からリゾート気分に浸り切れないもどかしさは、どうすることもできない。