|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
|
|
会長コラムへようこそ。
梅雨明け10日というが、今年は24日、25日は快晴が続く、暑い夏だった。
おかげで数回、海水浴を楽しんだ。
海に因んで・・・ |
|
|
|
|
|
|
さざえのつぼ焼き |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
(一) |
|
|
国際的な奉仕団体である唐津東ロータリークラブに入会して、はや30年。いつの間にか年長組となった。わがクラブにも、毎年新しい会員さんが入会される。 |
|
|
その方々の自己紹介を兼ねた卓話は、それぞれ個性に溢れていて興味深い。何しろ、私よりも、ずっと若く新鮮である。 |
|
|
本年入会の前田君は、海に近い肥前町で家業の建築業を継ぎ、活躍中だが、暇をみつけては、今もなお、海に潜り、サザエ・アワビ・カイ…をとり、家族、友人を招いてバーベキューを楽しむとのこと、羨ましい限りである。そんな想いをされた方が多いだろうな、と思っていたら、案の定、早速、佐賀新聞社の上杉さんがコラム欄に、「海の恵」と題する、エッセイの中で、前田君の卓話を紹介されていた。 |
|
|
|
|
|
(二) |
|
|
あ、そうだ。海に潜って魚貝を採る。古代の日本を紹介した最古の史料、邪馬台国で有名な『魏志倭人傳』は、古代人の生活をこう伝える。 |
|
|
曰く、「(狗邪韓国から、対馬国を経て壱岐国へ)、又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海の浜(そ)うて居る。草木茂生し、行くに前人を見ず、好んで魚鰒(あわび)を捕え、水深浅と無く(に関係なく)、皆沈没して之を取る」 |
|
|
末盧国の位置 |
|
末盧(まつろ)国、現在の唐津市は、平野に乏しいが、リアス式海岸で複雑な岩礁海岸が入り込み、この立地を活用して、古代から潜水漁業が発達していたことをこの倭人伝は、生々しく語る。 |
|
|
|
前田君は「好んで魚鰒を捕えた」3世紀の末盧人と同じ生活ぶりだから愉快になる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
(三) |
|
|
“あわび”のことで思い出した。十数年前、肥前名護屋は鎮西町の料理屋さんでの懇親会の席上でのこと、談たまたまアワビに及んだとき、仲居さんが、「私の家は、戦前まで海士でした。太閤さんから、漁業権をもらっていたそうです…」と聞き、ありそうな話だなぁと、気に留めていた。 |
|
|
その後、最近になって「太閤道傳説を歩く」 中島英俊 著 弦書房刊 を求めたところ、「名護屋浦のあわび漁特権」と題するコラム欄に出会った。 |
|
|
「名護屋浦の海士には、昭和24年漁業権解放まで、周辺海域で自由にアワビ漁ができる特権があった。その漁場は、東は湊の神埼、北は小川島・加唐島・馬渡島その他無人島、西は「平戸御領」堺までと広範囲だった。特権の由来は、文禄の役の渡海軍の水先案内の褒美として、「壱岐国沿岸一帯の鮑捕獲ノ御墨付ヲ得」たという。(「海士記録」)この御墨付は文化6年(1809)の大火で焼失したが、慣行漁業権は最後まで引き継がれていった」ということで納得する。 |
|
|
|
|
|
(四) |
|
|
あわび“採取”はこのように漁業権として保護される一方、徳川時代になって唐津藩の財政が悪化するにともない、干鮑(あわび)、煎海鼠(干ナマコ)、ふかひれは藩の専売品となり、藩の税収の貴重な財源となっていく。(唐津市史より) |
|
|
その後、海士さんの血を引く、あの仲居さんにはお会いしていない。懇親会のとき、もう少しくわしくお尋ねしておけば…と後悔している。 |
|
|
今年の暑い夏も終わった。
|
|
いろは島の海(唐津市肥前町) |
|
不順な梅雨から一転して長い夏だった。 |
古代人が潜っていた玄界の海は今なお紺碧、数々の海の幸を蔵している。 |
こんなすばらしい海だ。末永く大切に守っていかねばならない。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
参考文献 日本の歴史1神話から歴史へ 井上光貞 中央公論社 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|