私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 何気なく始めた写経だったが、いつの間にか30年近くになっていた。
 新涼、燈火親しむ頃、ゆっくり筆をとる。
写経
 叔父宮島庚子郎は、戦時中、宮古島の守備隊として赴任していた。終戦後も復員できず、その間物資不足のため、古紙を漉き直した再生紙を使用していた。その料紙に「般若心経」を謹書した。
(一)写経
 雨読の休日、徒然なるままに、硯を取り出し、墨の香に酔いながら、筆をおろす。
 「摩訶般若波羅蜜多心経、」
 と書きはじめる。
  好きな歴史の本を読むうちに、日本人の思考過程には、佛教が大きく影響していることに驚き、少しでも佛教の心に触れてみたいと、ふとしたことから写経を始めた。
 手もとの文箱を開けてみると、般若心経の日付で最も古いのは、昭和54年7月20日だから27、28年ぐらいになるのだろう。
 幼稚ながら、一字々々、丹念に筆を運んだ頃が思い出される。
 佛教の真髄を説く般若心経から書きはじめ、爾来、美しい浄土を描いた阿弥陀経、ひいては無量寿経、觀無量寿経の浄土三部経へ、さらに、妙法蓮華経(法華経)に取り組んだ。
 法華経を書きはじめたのが、昭和59年5月30日。序品第1から妙音菩薩進勧発品第28までを写し終えたのが、昭和63年10月17日。その間に孫が誕生したりして、4年4ヶ月の歳月を要している。  
 
 
平成17年5月1日付の
摩訶般若波羅蜜多心経
 少し悔いが残るのは、最初の頃は原典の意を解しながら筆を進めていたが、だんだん書くだけになってしまったことである。
 当時、写経については、全く無知だった。解説の本を数冊求め、一行は17文字、料紙の大きさ等々を学びつつ、般若心経を中心に折にふれ筆をとり、今日に至っている。
 おかげで少しは佛教への関心は深まったものの、いっこうに人間的に修養を積んだとは思えない。しかし、雑念を払い、無心の境になれるひと時と空間は、貴重な存在であり今からも大切にしたい。
(二)宮古島の「南無阿弥陀佛」
 数年前、近くに住む従弟が尋ねてきた。
 「父(私にとっては叔父)が、戦時中、宮古島で書き残している写経を、よかったら・・・・・・」と叔父の書「般若心経」、「南無阿弥陀佛」と二葉の料紙を頂いた。
 叔父、宮島庚子郎は、戦雲急を告げる昭和19年9月、陸軍少尉として、沖縄本島と台湾の中間に位置する宮古島の守備隊として赴任した。昭和20年に入り、戦局は急激に悪化する。沖縄が戦闘状態に入ると、艦砲射撃、機銃掃射、空爆の恐怖にさらされ、沖縄陥落後は、通信、交通は全く途絶え、不安におののきつつ、終戦を迎える。
 昭和20年8月15日以降は、復員の目途は立たず、昭和21年へ越年。この間、不安は募るばかり、物資、食糧は極度に不足し、栄養失調で中隊の約一割の方々が亡くなられたという。
 叔父は、これらの方々を弔い、そして自らの心を静めるべく、写経をはじめている。
 復員後、書き綴った「生き残りの記」宮古島時代に、こう語っている。
 「日用品も不自由になってきました。木綿針一本が十円で売買されるようになりました。糸は軍手をほぐしてつかいました。
 紙も不自由しました。尾籠な話ですが、おとし紙にも困るようになりました。兵隊の中に紙漉きの経験者がおったのでしょうか、古い新聞紙や反古を集めて作った再製紙が配給されました。しかし、それは厚くて硬くて、はな紙にもなりませんでした。
 終戦後の一日、私はこの紙をとり出して数枚ずつ継ぎ合せ、障子紙の大きさのものを三枚つくりました。そして中隊本部から、中隊でたったひとつあった硯と筆を借りて来て、各々のまん中に「南無阿弥陀仏」を書きました。左右と下の余白は浄土三部経の中から好きな句を抜き書きして、一葉ずつを埋めました。それはM−1小隊長が携行しておられた真宗聖典を拝借して写しておいたものです」
 
叔父の写経
 当時の叔父がおかれていた状況を思い浮かべながら、この写経をみると心が痛む。
(三)宮古島の料紙に写経
 昨年、母の17回忌を迎えた。従弟から頂いた二葉の宮古島での手造りの再製紙に“般若心経”をしたため佛前に供えようと、筆をとった。
 叔父の当時の澄み切った真情がこもった達筆には遠く及ばないものの、さまざまな感慨をこめて、敬虔な気持ちでかきあげた。
 60年前の新聞、雑誌等の古紙からの再生された紙だから、茶褐色である。どんな感触だろうと筆をおろすと、紙面は滑らかに、墨はしっとり滲む。紙を漉かれた人々の心情が傳わってきた。
 真夏の宮古島の海浜は、今はリゾートを楽しむ人々で賑わっていることだろう。
 
合掌