私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 小泉前首相の靖国神社参拝は、外交問題に発展し、ひいてはA級戦犯をどう考えるか・・・と議論は錯綜していく。唐津にゆかりのあるA級戦犯の一人、平沼騏一郎のことが思い浮かぶ。
平沼騏一郎
国立国会図書館ウェブサイト
近代日本人の肖像」より転載
(一)
 元首相、平沼騏一郎、といっても多くの人の記憶からは遠くなり、すでに、歴史上の人物になった。
 第二次世界大戦前、波瀾含みの国際情勢下の昭和14年1月〜8月までの総理大臣である。その平沼騏一郎の書が、私の知る限りで唐津には次の4幅がある。
 
1.「正誼明道」 唐津大名小路 麻生博之家 蔵
 麻生家は唐津鏡出身の武士。麻生政包(まさかね)は安政15年生まれ、唐津英語学校で辰野金吾等とともに英語を学ぶ。工部大学校鉱山科(後の東大工学部)、第一回卒。九州、北海道の鉱山開発に活躍する。57歳で没。麻生博之氏はその孫にあたる。
 
2.「敬義」 当社 宮島醤油本社 蔵
 
 いずれも力感溢れる直線的な楷書である。
 幼い頃、母から「平沼さんは、お祖母ちゃん(祖母ツル)の親類だよ」と聞かされていたので、麻生家、宮島家にある2幅は、この関係から由来したものだろう。
 
3.「壽因徳高」
 数年前、兄、傳兵衞(宮島醤油相談役)が、さる古物商の店で「平沼騏書」が眼にとまり、購入してきた。
 
4.「皇明光日月」 唐津市木綿町 料亭「植月」 蔵
 これもまた、力強く、雄渾、いかにも皇国主義者らしい。
 出典は、わが国、最古の漢詩集「懐風藻」(奈良時代)の冒頭にある侍宴一絶の起句であろう。
皇明光日月     皇明は日月のごとく光り
帝徳載天地 帝徳は天地を載(の)す
三才並泰昌 三才(天地人)ならびに泰昌
萬國表臣義 万国は臣義を表す
 
 以上、当時の貴族、公卿の天皇礼讃の詩である。この冒頭の起句を引用しているのも、国粋主義者、平沼の面目躍如といったところである。
(二)
 平沼騏一郎と唐津の縁は、麻生家、宮島家の共通のルーツ、掛下家からである。もう少し詳しく見ると、私の祖母ツルの叔父、掛下重次郎に、平沼騏一郎の妹、芸(シナ)が嫁いできている。
 たまたま、森一次内閣の通産大臣、平沼赳夫氏が、平沼騏一郎家の後を継いでおられると知り、あつかましくも、当時大臣であったご本人に掛下重次郎と平沼騏一郎の妹との婚姻をお尋ねした。まもなく、平沼赳夫氏から本人の自筆で、「私の母は騏一郎の実兄平沼淑郎(元早稲田大学長)の孫にあたり、騏一郎は母を実子の如く可愛がっていた。その関係から私が騏一郎家を継いでいる」とのこと、また「確かに平沼家の妹、芸(シナ)は掛下家に嫁いでいます。平沼は一貫して司法畑を歩んでいたので、その縁からの縁組でしょう」とのお返事を頂いた。  
掛下重次郎とシナ(平沼騏一郎の妹)
宮島家 蔵
 ちなみに掛下重次郎は、唐津の郷土先覚者としてその名を列ねている。
 「掛下重次郎 大審院判事、安政4年〜昭和6年、唐津藩士、掛下従周の二男、明治9年司法省法律学校に入学17年卒業、福岡始審判所判事に任ぜられ、爾後、長崎・名古屋・大阪の判事を経て、31年大審院判事となる。旧藩主小笠原家の顧問格として同家の庇護に当たり、育英財団久敬社の経営に腐心する一方卿堂の指導誘掖に熱心であった・・・」
(三)
 平沼騏一郎は、岡山県津山出身、慶応3年生まれ。性は謹厳実直、生涯独身で通す。主に司法畑を歩み、檢事、檢察の要職の後、検事総長、法務大臣を歴任するとともに精神右翼の巨頭として国本社を主宰、当時の思想政治面で活動する。昭和2年には、推されて枢密院副議長となり、若槻内閣提案の「台湾銀行救済緊急勅令安」を否決し、若槻内閣を辞任に追い込んでいる。
 枢密院とは、「明治憲法下では、天皇の諮問機関として、官制の改正、条約の批准、緊急勅令、その他重要国務は、その承認が必要であった。従って、その地位、権力は国家の進路を決定する」すこぶる重要なものである。
 昭和11年からこの枢密院の議長を務め、何度か首相候補にあがっていたが、昭和14年1月、支那事変の処理をはじめ、内外の諸問題を解決できずに第一次近衛内閣が総辞職した後をうけて、漸く平沼内閣が誕生した。
 しかしながら、当時の国際関係は、中国問題、防共協定強化、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約締結等、日本は独・佛・英・露・米の動きに対処できず、「欧州の天地は“複雑怪奇”」の名文句を残し、約8ヶ月で平沼内閣は崩壊し、その後は、第2次世界大戦へと急激に傾斜していくことになる。
(四)
 最後に、平沼は、昭和20年4月から、再び、枢密院議長の職にあり、昭和20年8月、終戦をめぐる深夜の地下壕御前会議に同席することになる。
 御前会議の席上では、ポツダム宣言の受諾か否かが議論され、受諾に反対、戦争継続を主張する陸相等と、国体(天皇制)保持を条件として受諾する平沼、米内に分かれるが、最後に、天皇自らの受諾の「聖断」が下される。
 この「受諾」を主張した平沼は、8月15日の朝、戦争続行を叫ぶ急進派の暴徒に襲われる。幸いに、首相や警視庁からの事前の連絡で、間一髪、難を逃れるが、平沼邸は一瞬のうちに灰燼に帰してしまっている。
 平沼赳夫氏は祖父騏一郎についてこう語っている。
 平沼騏一郎の理想は、人道の窮極「仁愛」が基調の道義国家・・・をこの地球上に顕現することであった。徳を本とし、公正無私、絶対平和の天皇を中心に人が皆家族の如く、互いに愛し合い、扶け合い、慈しみあう理想郷をこの世に実現することであった。
 騏一郎が戦犯として獄舎につながれることを最後のご奉公と心得て、淡々と80余才の痩躯を巣鴨拘置所に運ぶとき、日ごろ可愛がっていた私の母に言い残した言葉を、私は8月15日を迎えるたびに不思議に思い出す。
 いわく、「俺は何も言わないよ」と。
 この言葉通り、東京裁判では証人台にも立たず無言で終始した。一生の大部分を法曹界に捧げ、最後は、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、というルールを無視した裁きの場に立たされ、騏一郎は何を考えていただろうか。(平沼赳夫著 「平沼邸炎上す」より)
(五)
 昭和初期から第2次世界大戦へ、さらに敗戦への激流の中で人生を送った指導者たちの信念に生きた姿は、悲劇とはいえ、それなりの美学があり、訴えるものがある。
 しかし、やはり将来の政治、経済面における洞察力不足、国際感覚の欠如が、ファッショの道へと走らせたのだろうか。後世の史家の彼等への評価は、すべて厳しい。
 太平洋戦争から60年、すでに経済、生活の面では、その影響は全て失せているものの、昨今の靖国神社、教育基本法、憲法改正等々の議論の中では、形而上的には、暗中模索、いまだに深い霧がただよっている。
 司馬遼太郎は、ある歴史上の事実の価値が定まるには、100年が必要だと云っていた。昭和20年までの歴史を、冷静に判断し、定まった歴史観を育むまでには、もう少しの歳月が必要なのだろうか。
 本社事務室の平沼騏書「敬義」を仰ぎながら、歴史を考えている。