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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
風光明媚の唐津は、一方では、明治、大正、昭和のおよそ百年の間、松浦川流域に産出する石炭を唐津港から積み出すことにより繁栄していた。
現在のJR唐津線(西唐津〜佐賀)は、唐津炭田の石炭を輸送するために敷設されたものである。
その唐津線の設立に尽力された「加藤海蔵」をご紹介しましょう。 |
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加藤海蔵
(宮島家 蔵) |
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唐津線路線図
(東松浦統計要覧大正3年より)
この路線に沿って石炭が産出されていた。 |
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佐賀県唐津市付近の地図 を表示
(赤枠内が左地図部分) |
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(一)出会い |
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「兄さん、唐津線を作った『加藤海蔵』という人を知っとるや」 |
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島津製作所に勤務していた弟から、こんな電話を受けたのは、平成9年の3月だった。 |
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早速、手もとにあった井手以誠氏『佐賀県石炭史』を開くと、「唐津鉄道は、当時の東松浦郡長加藤海蔵氏の奔走で」とある。現在のJR唐津線の敷設に尽力された旨、弟に返答すると、折り返して「その加藤海蔵氏のお孫さんにあたる加藤久雄君とは、島津製作所には同期入社の親友、またお父上の加藤天槌さんも、(旧制)唐津中学に在学されていた」とのこと。祖父、海蔵氏の資料を整理していると、自筆の履歴書が出てきたので尋ねてこられたという。 |
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その履歴書のコピーをお頼みしていたら、しばらくして送って頂いた。 |
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(二)履歴書 |
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履歴書はお人柄が偲ばれるような、端正な筆で書かれている。 |
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「福岡県豊前國企救軍西紫村字篠崎七百四十四番地 士族 加藤海蔵 弘化三年五月五日生まれ」からはじまり、詳細な履歴を便箋30枚にまとめてある。 |
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とりあえず、まず、唐津線の設立に尽力された東松浦郡長の項を見る。 |
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「明治二十六年五月十五日 任佐賀県東松浦郡長 内閣総理大臣伊藤伯宣」とある。弘化3年(1846年)の生まれで、明治26年(1893年)の着任だから、47才の郡長である。当時の官吏として脂ののりきった頃なのだろうか。その2年後、明治28年には「非職ヲ命ス」、明治29年10月20日「依願免本官」となっている。 |
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そして、最後の頁、「郡内公業」として民間の仕事にたずさわった履歴の数行は、私たち唐津地方の市民にとっては、まことに貴重である。 |
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「一.唐津鉄道布設 明治廿七年
右 郡長ノ職務上及民業ヲ兼ヌ成効ス
一.唐津鉄道社長 同廿八年ヨリ
丗二年迄
右 民業創立委員長ヨリ社長迄勤続シ鉄道竣効ノ上辞職ス」 |
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以上、明治26年に郡長として赴任、同28年には郡長を辞し、同32年には唐津鉄道も退任しているので、実質は6年余、唐津、東松浦郡のために粉骨砕身、全力を尽くされている。 |
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履歴書抜粋1
維新前 |
履歴書表紙 |
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履歴書抜粋3
明治28年1月28日
非職を命ス |
履歴書抜粋2
同年(明治26年)5月15日
任 佐賀県東松浦郡長 |
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履歴書抜粋5
唐津鉄道社長
明治28年1月ヨリ32年迄 |
履歴書抜粋4
郡長ノ職務上及民業ヲ兼ヌ成効ス |
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クリックすると拡大します。 |
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(三)生い立ち |
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加藤海蔵の一生をたどってみる。 |
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履歴書の冒頭から、「文久2年(1862年)5月、朝廷は、12諸侯に攘夷の内勅あり、我が小倉藩は、原治兵衛を正、飯森辰蔵を副とし、長州藩へ派遣され、その護衛随行を命ぜられる」 |
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時に海蔵、16才、初陣である。 |
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ついで、元治元年(1864年)、第1次長州征伐では、大砲打ち方として参戦。次いで、慶応元年(1865年)、第2次長州征伐では、長州からの小倉藩、大里包壘への攻撃に対し奮戦し、長州兵を全滅せしめた。しかし、戦局は幕府小倉藩にとり不利となり、幕府討伐総督、小笠原壱岐守長行(唐津藩出身)の離脱、九州諸藩の動揺により、小倉藩は孤立し、香春まで退き防戦すること数ヶ月「此間朝夕幾回トナク出戦シ、四ケ月殆ンド寧日ナシ」と誌している。 |
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慶応2年、光明天皇崩御、将軍家茂の死去により休戦、小倉藩の軍も解体する。 |
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当時の海蔵には、30年後、小笠原長行の出身地唐津で東松浦郡長を勤めることになるとは知る由もなかっただろう。 |
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その後、海蔵は、新潟、会津、山口へと騒擾の鎮撫に活躍し、また海軍術を修行し、軍事、警察への途を進んでいる。、 |
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明治5年の廃藩置県にあたり、藩務引継として小倉県へ出張、翌6年、福岡県下の一揆蜂起を鎮撫、明治7年の佐賀の乱に際しては、豊津藩を代表して、大久保内務郷出張所に出張し、乱鎮圧後は、佐賀県の立直し、お目付役としてだろうが、佐賀県庁の役人を命じられている。これが海蔵が佐賀県と関わりあった始まりである。 |
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その後、一時、小倉藩に帰任するが、明治14年、大阪府へ転ずる。大阪府で、明治22年まで8年間、奉職、その間、土木課長等の要職にあり活躍、四等属から一等属へと昇進、判任官に序せられる程、精励し数々の表彰をうけ、充実した勤務ぶりがうかがえる。 |
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明治22年、辞職。内務省に属していたが明治25年11月10日、佐賀県参事官を命ぜられ、内務部第2課長、第4課長、会計主務官、逓信費会計主務官を務め、明治26年5月15日、「佐賀県東松浦郡長」に任ぜられることになる。 |
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(四)唐津鉄道と加藤海蔵 |
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明治26年、加藤は東松浦郡長に就任する。 |
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彼は、郡長として産業振興、地域開発に情熱を注いでいる。米麦二毛作運動、製糸会社創立、松浦橋の架設等々あるが、最大の功績は唐津鉄道、現在のJR唐津線の設立である。 |
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明治維新後、日本の近代化に欠かせないエネルギーの源泉としての石炭は、松浦川流域に埋蔵されている。当時、採掘されていた石炭は、川舟に積まれ松浦川河口に運ばれ、現在の東唐津に貯炭、再び唐津湾に泊まっている蒸気船に積み込まれ、國内外へと、輸出、移出されていた。 |
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この唐津炭田の石炭を効率的且つ大量に輸送するためには、是非とも鉄道を敷設せねばとの機運が高まっていた。 |
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しかし、当時の経済情勢、資金不足もあり実現されぬままであった。 |
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明治26年5月、加藤海蔵の東松浦郡長の就任に前後して鉄道敷設の声は再び高まり、明治27年、正式に「唐津興業鉄道株式会社発起及鉄道敷設申請書」が発起人草物猪之吉外28名から逓信大臣に申請された。明治29年2月に認可されている。 |
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この間、加藤海蔵は、唐津鉄道の創立委員長として、中央との折衝、地元経済界、住民の要請等を取り入れる一方、資金面においても、大阪府勤務時代の人脈を生かし、大阪財界からの資金導入に成功し、着々と敷設の準備が整っていく。 |
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その後、加藤海蔵は、地元の期待にこたえて、唐津鉄道の専務を経て、鉄道の完成に専念すべく明治28年1月28日東松浦郡長の職を辞し、唐津鉄道株式会社の社長に就任する。 |
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唐津線は明治30年4月、妙見から南北に起工、31年12月大島〜山本間、32年6月山本〜厳木間、同年12月厳木〜多久間が完成していく。 |
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しかしながら、此の間、線路を延長する毎に、資金不足、計画の変更、株価も下落し、大阪の株主、地元の出資者、経営陣への相互不信等も加わり、経営は必ずしも順調に推移せず、日清戦争後の不況も影響し、明治31年4月の総会において、加藤海蔵等役員は辞任を余儀なくされ、加藤社長の後任には、建野郷三が就任する。建野郷三は加藤が大阪府に勤務した当時の大阪府知事として活躍していた。恐らく、加藤社長のあるいは大阪の株主の推薦によるものであろうか。 |
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かくして、明治32年に、加藤は唐津を去り、その後の活動の足跡は残されておらず、唐津市民の記憶から徐々に消えていった。 |
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(五)唐津鉄道のその後 |
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かくて、紆余曲折を経ながらも工事も進行し、明治30年頃から、石炭大手の三井鉱山、貝島炭鉱、三菱鉱業の参入により、唐津炭田の輸送体系も整備され、明治35年唐津鉄道は九州鉄道が買収し、翌36年、唐津〜久保田間が開通し、九州鉄道と連絡する。さらに国の政策としての日本国有鉄道法の施行に伴い、明治39年7月、国鉄唐津線となり、さらに大戦後は、国鉄民営化によりJR九州へと変身することになり、今日に至る。 |
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筑肥線電化に伴い、新しい唐津駅舎落成とともに、唐津駅広場には、鉄道功労者岸川善太郎、平松定兵衛、草場猪之吉、大島小太郎 四氏のレリーフ像が設けられた。勿論、地元有志のこれら先駆者の強い意思と実行力によって今日の唐津線は存在するのだか、唐津線誕生までの“産みの苦しみ”を乗り切ってきた、加藤海蔵の功績を忘れてはなるまい。 |
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満腔の感謝の念をこめて、筆を擱く。 |
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(左)草場猪之吉 (右)大島小太郎 |
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JR唐津駅前広場 鉄道功労者顕彰碑 |
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(左)岸川善太郎 (右)平松定兵衛 |
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参考文献 |
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履歴書 加藤海蔵 |
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末盧国 131号 唐津の先覚者 加藤海蔵と唐津鉄道 富岡行昌 松浦史談会 |
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比較社会文化 第1巻 (1995)49〜60頁 唐津炭田の輸送体系の近代化
−唐津興業鉄道会社の成立と石炭輸送− 東定宣昌 |
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