私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 もういくつねると お正月
 お正月には凧あげて
 こまをまわして 遊びましょう 
 はやく 来い来い お正月

子供心には、待ち遠しいお正月。
昭和10年〜13、14年頃の楽しいお正月、
宮島家のお正月を思い出しています。
お正月
(一)若水
 元旦、いまだ明けぬ頃、
 「デンチャン、若水を汲みなさい」
 と母の声に起こされる。
 眠い眼をこすりながら、丹前を羽織り、台所の井戸端に向う。釣瓶を落とし、ぐいと引き上げる。井戸水をザアーと桶に注ぐ。終わると、母の「ありがとう」の声を背に聞きながら、温もりの残っている蒲団に再びもぐり込む。しばし微睡(まどろ)むと夜が明ける。
 幼い頃 ― 昭和13〜14年、10才位ごろだったろうか、僕のお正月は、若水を汲むことからはじまった。
 「一番若い男の子が、年の初めに水を汲むんだよ」と素直に母の説明に従った。今なお、冷気の中でのかすかな緊張感はみずみずしい。
 
 若水とは、元日の早朝に汲む水をいう。年神様(年の初めに一年の幸せをもたらすために降臨する神様)に供え、平安時代には、宮中の行事として主水司が天皇に奉る行事だった。それが一般の庶民の間に広まったという。
 この若水を雑煮に使ったり、飲んだりすれば一年の邪気を払う、と信じられていたとのこと。
(二)十二支の絵衝立
 お正月に干支はつきものである。
 宮島家には、子丑、寅、卯巳、午未、申、酉、戌、亥、十二支の絵衝立が12枚あり、年が改まる毎に入れ替えた。
 今年は云うまでもなく、亥、猪。
 子供心に、毎年の移り変わりを楽しんだものである。ところが、その中の1枚だけ、鉛筆のようなもので、傷をつけた形跡がある。犯人は兄弟姉妹8人のうち誰だということになって、どうも、次男坊(傳二郎)の仕業だろう ― ということになっているらしい。勿論、本人は「全く記憶にございません」
 因みに、昨年の戌、犬と平成19年の亥、猪の屏風を紹介します。
 
 
犬、戌の衝立
緑竹狗子
亥、猪の衝立
和気清麻呂詣宇佐八幡
(三)御屠蘇
 元旦。父母、兄弟姉妹総勢11名。家族そろって、お屠蘇を酌み交わしお正月を寿ぐ。
 床の間には、大きな鏡餅が飾ってある。その横に、小さな鏡餅がちょこんと子供の数、9ヶ並びお正月を祝ってくれる。
 日頃、忙しい父も、ゆったりとし、笑顔で私ども子供たち9人に接してくれる。中二階になっている座敷に、ほんの少し威儀を正し全員集合。
 
床の間を背にして    
床の間
 末弟 
  父   
  母   
 長姉   次姉   三姉   妹  末妹     
と並ぶ。
 「おめでとうございます」
 お手伝いのお姉さんたちが、襖を開けて、おめでとうございます、と一同に挨拶。続いて、順次お屠蘇を頂く。子供にとっては、お酒、薬草の香、みりんの甘い味は、ちょっぴり舌にのっけるだけだが、あらたまった気分になる。
 「頂きまーす」と、お箸をとる。
 それぞれの御膳を思い出しながら、再現してみます。
(四)正月料理
御膳 銘々膳
 
蝶足膳   男性用 宋和膳   女性用
 男と女と御膳が異なっていた。
 江戸時代では家族の中でも身分的序列が決まっていたというから、昭和の戦前までは、そんな考えが残っていたのだろうか。
 その御膳の上の正月料理。
 まずは大好物の甘い黒豆をひとつ、とりあげる。
 次いでは、お雑煮だ。
 「お餅は年の数だけ食べなさいよ・・・」との母に促され、小学校3〜4年生頃までは9ヶ〜10ヶは食べ、満腹感を味わった。
 雑煮は、本来、神に供えた神饌(餅)を下げて、鶏肉、魚介、野菜などで煮込むので、地方々々によってさまざまである。
 唐津地方、いや宮島家の雑煮は簡素だった。餅は湯を通しただけ、ダシはちょっとゼイタクをして、飛魚(アゴ)のダシ、鶏、魚介はなく、野菜はカツオ菜、その上に、カツオ節がふりかけてあるだけだった。味はすっきりしていたので、お餅の数は進んだのだろう。
 
 お餅のことで思い出す。
 母は、お餅の話になると、
 「傳二郎はワルソウだった。搗きたてのお餅の上を走りまわって、いくら注意しても止めなかった」とこぼしていた。
 本人は勿論、記憶にはない。多分、搗きたての餅を踏むと、やわらかい感触が快かったので、はしゃいだのだろう。
 搗きたての餅をまるめた感触が蘇ってきた。“餅つき”は、お正月を迎える、年の暮れのイベントだった。寒さもきびしくなる年末、もっとも冷え込む朝は未明。台所の土間に臼が据えられ、セイロではモチ米が蒸され、白い湯気が広い台所に漂う。
 蒸し終えたモチ米が、臼にひっくり返されると、搗き手の屈強な若い衆の“ヨイショヨイショ”と威勢のよいかけ声とともに、お米はお餅へと生まれかわる。
 搗き終えたモチは、「デキアガリ」と餅とり粉のひかれた板の上に抛り込まれる。母が器用にこなしながら、それぞれの大きさの鏡餅へと変身する。小餅にするためには、ふくよかなおモチを千切っては子供たちのまえに、ぽんと投げてくれる。その小さな固まりをまるめて、まんまるにする。準備された板の上に5〜7列ぐらいに並べていく。
 こうして、お正月のお餅、鏡餅、小餅、カキモチ用と準備されていく。そろそろ夜が明けてくる。
 最後の一臼ぐらいは餡餅だった。甘い餡子をふわふわの搗き立てのお餅でくるむ。おいしい。最後の最高の楽しみだった。
(五)拝賀式
 お雑煮で満腹した後は、そろそろ小学校拝賀式の時間となり、姉たちといっしょに登校する。新年拝賀式の様子は、東方遥拜くらいが記憶にあるものの、校長先生のお話をはじめ、全くといってよい程、空白である。
 ただ、「一月一日」の歌だけは口誦むことがある。
 
一月一日
 年の始めの 例(ためし)とて
 終わりなき世の めでたさを
 松竹たてて 門(かど)ごとに
 祝う今日こそ 楽しけれ
 
 初日のひかり さしいでて
 四方(よも)に輝く 今朝のそら
 君がみかげに 比(たぐ)えつつ
 仰ぎ見ること 尊とけれ
 
 明治26年8月、祝祭日の歌のひとつとして指定。
 作曲 音楽学校教授 上直行
 作詞 のちの司法大臣 千家尊福
 
 拝賀式が終われば、楽しい正月の休み。
 カルタとり、双六、凧あげ、ショウギ 等々。
 家は、年賀のお客さん、親類の人たちと忙しい。遊び疲れた頃、ミカン、おもち等々のおやつと楽しいものだった。お年玉など、もらった記憶は全くない。せいぜい、ミカンかアメくらいだった。
 こんな、のんびりしたお正月も、支那事変が始まり、太平洋戦争への歩みが急を告げてくるにともない、緊縮した正月になり、物資も不足勝ち、戦時中のお正月は、ほとんど記憶から薄れてしまった。
 そして、戦後は価値観も食生活も大きく変化していく。
 しかし、「一年ノ計ハ元旦ニアリ」である。
 “しきたり”は、時とともに変わるとしても、各家、各人、新年にあたっての新鮮な気持ちの「しるし」としての何らかの“しきたり”だけはもっていたいものである。
 亡き父母を偲びながら、筆を進めました。3人の姉には、いろいろ教示して頂きました。ありがとうございました。
参考文献
日本人のしきたり 青春出版社 飯倉晴武 著
箸(はし) ものと人間の文化史 法務大学出版局 向井由紀子、橋本慶子 著