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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
年々歳々、月日は流れる。
いつの間にか、喜寿(77才)になっていた。
いやでも年令を考えざるをえなくなった。
ところが、はからずも、永年、地域スポーツの振興に貢献した、とのことで、唐津市から「唐津市政功労者として表彰する」という。
1月4日、「多年、唐津市バレーボール協会会長及び唐津市体操協会会長として市民体育の向上と地域スポーツの振興に貢献」したとのことにより、受賞の栄に浴した。
表彰を受けながら、ともに汗を流した、数々の恩師、先輩、同僚、後輩の顔が浮かんできた。 |
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(一)子供の頃 |
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9人を数える兄弟姉妹の真中、5人目だから、兄1人、姉3人、弟2人、妹2人に恵まれ、遊ぶには事欠かず、兄、姉に言わせると特別ヤンチャな子供だったらしい。 |
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体育、スポーツと名のつく競技をはじめたのは相撲だった。近くの金比羅さんの奉納相撲などで活躍、6年生のときは、唐津市東松浦郡の小学生相撲大会、いわゆるワンパク相撲で個人優勝に輝いた。夕闇迫る頃、“ヤッター”と大喜び、先生からオゴってもらった親子丼のおいしさは、今なお、なつかしい。 |
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昭和16年 |
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小学6年生 最上列、右から6番目が私
第2列左から5番目 担任の進藤政見先生
相撲をとったり、原っぱ野球で遊んだ友人たち |
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昭和16年、小学6年生、国際関係は緊張、戦力増強、富国強兵が強調され、児童生徒の体位向上が叫ばれていた。担任の進藤先生は体育が専門で、徒手、鉄棒、跳箱等々、熱心に指導して頂く。心身ともに発達する年頃である。特に力をいれたのが鉄棒だった。当初は、サカアガリ程度だったが、ケアガリに挑戦、苦心惨憺の末、成功。反動を利用することを覚えると、面白いほどに上達する。大振り、巴等々、親しかった友人浦田能清君と始業前、朝早くから登校し、新しい技の練習に励んだ。 |
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浦田君が大車輪に挑んだ。一回転、二回転ぐらいだったろうか、しっかりと握っていたはずの指が鉄棒から離れる。アッ、体が飛ぶ。踏み切り板に激突。ひじの関節が突出していた。その後どうしたか、今はもはや、記憶は薄れてしまった。 |
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ただ、その後は、恐ろしくなったのか、二人とも、大車輪は完成できず、そのまま中学に進学した。 |
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数年前のテレビCMで、かなりの年配の人がクルクル身も軽やかに大車輪を披露していた。そのCMを見る度に小学6年生の頃が蘇り、担任の進藤政見先生を偲んでいた。 |
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(二)バレーボールとの出会い |
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昭和20年8月15日 終戦。唐津中学(旧制、現唐津東高)4年生。 |
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大村海軍航空廠の学徒動員から帰宅。9月1日、2学期から登校する。しかし、国の教育方針は全く決まらず、英語、数学、物理、化学等のみの授業は午前中で終わる。 |
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空腹に悩まされつつも、若い。何かやろう。誰かが、バレーボールを一個見つけてきた。 |
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「女学生と試合がされるバイ」との甘言につられて、バレーボールを始めたのは、昭和20年の秋頃だったのだろう。 |
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しばらくして、パス、トス、キル(スパイク)を覚えて面白くなった。だが相手がいない。あつかましくも、先生方にお願いしたら快く応じてもらった。授業中の厳しさとは異なった温顔は、今なお、なつかしさでいっぱいである。 |
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ただ、ボールはお粗末だったから、すぐ変形し、破れる。家に持ち帰り修繕する。変形したボールは前後左右に揺れながら落ちてくる。勿論、野外だから、陽に焼ける。ハダシだから、足にマメができる。しかし、何もかも忘れ、白球を追った。息苦しかった戦時中の生活から解放された楽しい青春のヒトコマだった。 |
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(三)最後のインターハイ |
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昭和21年9月、約6ヶ月の短い受験勉強だったが幸に、福岡高等学校(旧制、現在の九大教養学部)に入学できた。 |
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中学時代、ともにバレーボールを楽しんだ親友、吉田清文君とともに校門をくぐる。たまたま、福岡県内のバレーボール大会があっている。二人はその高度な技術に魅せられ、誘われるままに、排球部(バレーボール部)に入部した。ところが、福高排球部は聞きしにまさる名門だった。全国高等学校大会(インターハイ)では、戦前、2回優勝、戦後、復活の昭和21年第1回大会も優勝、連続3回全国制覇している。この伝統を守るべく、寮生活の食糧難にあえぎながらも、本格的な練習に励んだ。 |
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※因みに、当時の学制を紹介しましょう。 |
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小学校から中学へ、中学4年終了、又は5年卒業で、高等学校3年、大学3年であった。そのうち、高等学校は第一高等学校から第八高等学校までと、地名高校その他
合計38校。入学すれば、ほぼ国立大学に入学できた。従って、この高校3年間は大学受験にとらわれず、自由に勉学に、体育に、思索にふける生活を送ることができた。 |
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この旧制高校の存在価値には多様な意見があったものの、昭和24年の学制改革により、廃止され、いわゆる、新しく6・3・3・大学への学制へ移行する。 |
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昭和23年、この旧制の学制による最後のインターハイに参加することができる幸運に恵まれた。 |
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最後の大会ということで、地区予選はなく全国18校が参加した。福高排球部は前年の昭和22年の大会では、第四高校(金沢)に決勝で敗れ、準優勝に甘んじていた。そのリベンジと最後の優勝旗を永遠に持ち帰らんと懸命だった。 |
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(四)右手中指のネットタッチ |
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時は、昭和23年7月25日、ところは京都、わが福高は、広島高、北大予科、東京都立高校と対戦、苦戦しながらも、勝ち進み、地元京都の三高と決勝戦、優勝を争った。 |
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試合開始のホイッスル。第一セット、試合巧者の三高の軟攻に悩まされ、6〜7点のリードを許す。中衛左でヤキモキしていた私に、セッター、吉田君が見事なトスをあげてくれる。ヨシと、十二分に体を沈め、ジャンプ、タイミングもよく、スパイク、白球はブロックアウト、ヤッタと思った瞬間、私の右手中指はネットをかいていた。非情なホイッスル。60年の歳月を経ても、右手中指はその無念さを記憶している。惜しくも第一セットを失う。 |
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しかし、その後は主将古賀敬造君は前衛右で、左利きを活かし、八面六臂のすばらしい活躍で第2セット、第3セットを連取。念願の優勝を果たす。 |
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福高
2 |
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18 - 21
21 - 11
21 - 17 |
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三高
1 |
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最後のインターハイに勝った。 |
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福高排球部の輝かしい伝統を守り抜いた。優勝旗は、福博の地から永久に動かない。 |
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こう思った瞬間、嬉しさがこみあげてきた。 |
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優勝の美酒に酔い、京都の街を練り歩いた真夏の夕。今なお、こうして筆をすすめると、青春のどよめきが、怒涛の如く、蘇える。 |
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福高排球部 |
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前列、左端が私、その右は吉田清文君
前列、右端から2人目、主将 古賀敬造君 |
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優勝旗
現在、松本市の旧制高校記念館に保存 |
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爾来、この優勝経験を隠れたプライドとして、バレーボールとの生涯スポーツの人生がはじまる。 |
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福高卒業後、大学入試前の浪人の数ヶ月、乞われて、唐津高校の体育の講師、といってもバレーボールの指導。大学入学後は、大学のチームに在籍しながら佐賀県内のクラブチームで県代表として国体の九州地区予選に出場する等、華やかさはないものの、バレーボールを楽しんできた。 |
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(五)蘇る青春、・・・OB大会 |
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旧制高等学校排球大会は、昭和3年から、昭和23年に学制改革により廃止されるまでの間に、17回開催された。 |
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この大会に出場したOBたちの白球への情熱は消滅せず、33年後の昭和56年からOB大会が開催された。ジイさんバレーと自称しながら、再びめぐりきた青春を謳歌すること12回、平成4年に終了した。まさに「最後のインターハイ」だった。 |
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OB大会前夜祭 |
OB大会
「最後のインターハイ」でのスパイク 62才 |
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(六)社会人となって |
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昭和28年、貝島炭礦株式会社(本社、福岡県、宮田町)に入社。 |
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主に労使関係の業務、とくに、エネルギー革命の真っ只中での労使交渉の問題解決に従事した。その間、会社チーム、あるいはクラブチームに在籍し、炭鉱の大会、筑豊の大会等で、バレーボールを楽しんだ。12年の勤務の後、昭和40年、ふるさと、唐津にて家業にたずさわるべく、宮島醤油株式会社に就職する。 |
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25、26才頃
炭鉱での練習風景 |
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(七)唐津にて・・・唐津市体操協会、唐津市バレーボール協会 |
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帰郷後、唐津高校の体操部で活躍していた後輩数名が訪れてきて、 |
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「小学生に体操を教えたいので、体操教室を立ちあげたい。唐津体操協会を設立したいので、会長を……」 という。若い彼等の情熱に共鳴し、応諾する。 |
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以来40年余。体操教室は、月2回、土曜日の午後、約3時間、毎回40〜50名の子供たちは、嬉々として、トランポリン、鉄棒、飛箱と思い切り跳び、走る。 |
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指導は、高校の体育、体操の先生(現役OB)、体操競技選手経験者の皆様で、毎回少なくとも4〜5名、手弁当で40年の永い間、指導してくれるのには頭が下がる。 |
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体操教室の子供たち |
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唐津市バレーボール協会。昭和40年、帰郷すると、球友たちが副会長をせよ、という。爾来、会長をつとめ、今日まで、お世話になっている。 |
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可愛い子供たちの黄色いカケ声、白球を追いかけるひた向きな、小学生のバレーボール。 |
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中学、高校の部活動への協力。 |
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母として、主婦として、はたまた職業を終えてからも集ってくれるママさんたちの若々しいプレー、全国家庭婦人大会出場(外町3回、西唐津1回、長松1回)のチームへ拍手をおくり、ときには一般男女の試合の応援に一喜一憂する。 |
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そのかたわら、志道小学校区のママさんバレーボールチームの監督を引きうけている。これは、指導しているのか・・・愚妻に云わせれば「遊んでもらっているのでしょう」とのこと。 |
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志道校区のママさんバレーの練習風景 |
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志道校区のママさんバレーのメンバーと、ともに |
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(八)ソフトバレーボールは現役? |
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それぞれの協会で、同好の士と汗を流してから40年余の歳月が流れていたのに気がつく。 |
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そして、今、ここ10数年来、生涯スポーツとして盛んになったソフトバレーボールのチームをつくり、連盟を立ち上げ、各地の大会に出場し親睦を深めている。一昨年、平成17年の「第18回ねんりんピック福岡大会」には佐賀県代表として出場、試合の方は、“出場することに意義あり”だった。しかし、高齢者賞の栄誉(?)に浴する。これは、「もっと励めよ」ということか、「もう、そろそろいいのだよ」ということか、と苦笑いしながら、考える。 |
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勇姿(?) |
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とは云うものの、夕方ともなれば、愚妻のアキレ顔をよそに、週2〜3回、校区ママさんバレーの指導、ソフトバレーボールの練習にいそしんでいる。あと何年もてるかな。 |
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今なお、こうしてスポーツの醍醐味を満喫できることに感謝しながら・・・ |
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