|
|
|
|
|
|
|
|
私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
|
|
会長コラムへようこそ。
本年、2007年は、宮島醤油創立125周年を迎える。
この年に因んで、8月、9月は宮島家、中興の祖、
七世宮島傳兵衞の人間性を辿ってみました。
|
|
|
|
|
|
|
七世宮島傳兵衞 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
(一)その一生 |
|
|
私の曽祖父、宮島醤油の創業者、七世宮島傳兵衞は、徳川時代の末期、嘉永元年(1848)、唐津に生まれる。 |
|
|
遡って、宮島家の先祖は水運業、船乗りを業としていたが、いつの頃からか、唐津の水主町(かこまち)に住み着き、「富田屋」と称して、魚類商・料理店を営んでいた。七世傳兵衞の祖父、清左衛門・六世傳兵衞、父喜兵衛はともに進取の気性に富み、当時のベンチャービジネスともいえる石炭採掘、捕鯨等に取り組み、経済界に雄飛せんと試みたが報われず、養子であった父喜兵衛は、13才のとき、宮島家を去っている。七世傳兵衞は、齢17才のとき、祖父六世傳兵衞逝去のため、富田屋の家業を継ぐことになる。爾来「是より母とともに大いに活動する」と母を助けて奮闘した。 |
|
|
女(母)手一つで支えてきた富田屋は苦しく、傳兵衞は、天秤棒をかついで魚の行商に励んだ。 |
|
|
「13の年、佐賀に魚売りに行き、帰りに売り溜め(代金)をみんな落として、泣く泣く帰ったことがあった」と孫たちに語っている。 |
|
|
|
|
|
祖父の死を契機として、19才にして、新町三浦屋福井ギンと結婚、単なる魚類商・料理屋では満足せず、20才のとき、唐津炭田に産出する石炭を帆船にて初めて関西・兵庫へと積出す。 |
|
|
|
妻ギン 七世傳兵衞 |
|
|
|
以来、海運・遠隔地商業へと事業を展開するが、好事魔多し、明治10年、虎の子の所有船、大麻丸を海難事故にて失い、大きな痛手を蒙るが、これをきっかけに「醤油業ハ日用品ニシテ永遠宮島家の商賣見込」ありと「醤油醸造業設立する」 |
|
|
爾来、醸造業とともに石炭販売、松浦川の川舟による石炭移送、唐津紙の販売、唐津物産株式会社の設立、酒造業・・・等々、多彩な活動を展開していく。いづれも経済環境の変化にうまく対応して、従来の経営基盤と関連させながら、事業の転換に成功する。 |
|
|
|
|
|
大正6年、70才、家督を長男徳太郎に譲り、引退記念として、盛大なる古希の宴を催し、金1万円を奨励金として東松浦郡に寄贈する。 |
|
|
|
|
|
古希(70才)を記念し、自祝の宴を張る。(大正6年5月27日) |
|
|
|
|
|
古希の祝、記念品 |
|
記念品の底の銘 |
|
|
念 記 賀 祝 家 島 宮 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
しかし、その翌、大正7年になり、胃を患い、病あらたまり、子、孫等を枕頭に集め、上体を起こし、紋付を羽織って、別れの金盃を交わす。辛うじて数滴の酒を通し、如何にも機嫌よく、自分の一生を省みて「立派にやった」と満足げだった。 |
|
|
(「七世宮島傳兵衞」宮島庚子郎 著) |
|
|
|
|
|
※業績については「『去華就実』と郷土の先覚者たち」をご覧ください。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
(二)七世宮島傳兵衞の人となり |
|
|
傳兵衞逝きて90年余。もはや彼の声咳に接し、その人となりを語る人はない。 |
|
|
ただ、母、叔父母、永年宮島醤油に勤めた人たちが語っていたことは、異口同音、 |
|
|
「仕事の上では、厳格そのもの、眼ン玉から出る程、怒られる。しかし、その後はすぐに温かい言葉をかけてくださった」と云う。 |
|
|
|
|
|
このような人柄を伝える記録は少ないが、永年、苦楽をともにした人たちが語った、傳兵衞の言行録と、傳兵衞を偲ぶ座談会の記録が宮島醤油の社内報「社友」昭和28年6月10日号に掲載されていた。 |
|
|
|
|
|
(三)七世傳兵衞翁、言行録 |
|
|
語ってくれているのは、高木利吉氏である。 |
|
|
|
|
|
休憩のひととき
右端 高木利吉氏
その左(右から二番目) 七世傳兵衞の孫(私の父) |
高木利吉(当時監査役)
昭和17年3月20日 |
|
|
|
|
|
|
|
|
高木利吉氏は、明治の中頃、宮島商店石炭部に入社、七世傳兵衞に仕え、常に側近にあって、傳兵衞の薫陶を受けられた。明治、大正、昭和と永年経営に当られ、特に戦中戦後の混乱期にあっては、歴代社長、社員の信頼厚く、支配人として、今日の宮島醤油の基盤を築いていただいた恩人である。(私たちも幼少の頃から、公私にわたりお世話になり、その勤勉、誠実なお人柄とその温顔は今となっても忘れえない) |
|
|
|
|
|
高木利吉氏は、七世傳兵衞についてこう語っておられる。 |
|
|
|
|
|
七世宮島傳兵衞翁(以下、翁と記す)は、宮島家の今日の基礎を築かれた立志伝中の人です。家人や側近に対しては極めて厳格で理屈にあわぬことは寸毫も許さぬ強い性格の人でしたが、その反面、極めて情にあつく、私たちにとっては、恩威並び行われる、という風でした。 |
|
|
翁の言行から、家訓とでも云えるものを挙げてみました。 |
|
|
|
|
|
一、知入計出 |
|
|
入ることを知り、出ることを計る。 |
|
|
商人にあっては、むしろ「知出計入」かもしれないが、家庭生活にあっては、一定の収入の範囲内で生計を保てば、生活面で不十分でも他人に迷惑をかけません。家庭生活にとっては金言です。 |
|
|
|
|
|
二、一円の金は、一兵卒と思え |
|
|
一円の金を一兵卒と思えば、100円を無駄に使えば、100人を殺すことになる。それでは、戦争には勝てない。 |
|
|
(1円を笑うものは1円に泣く、ことでしょうか) |
|
|
|
|
|
三、早や飯、早や糞、早や襷(タスキ) |
|
|
(仕事は迅速に、ということでしょうか) |
|
|
|
|
|
四、嫁には化粧させろ |
|
|
妻は、綺麗であれば、家庭円満、一家繁盛。 |
|
|
|
|
|
五、仕事に惚れよ |
|
|
仕事に惚れて励めば、自己の生活も安定し、事業は繁盛する。 |
|
|
|
|
|
六、旅行好きの傳兵衞が、世界漫遊から帰宅して曰く。 |
|
|
「世界で一番良い国は日本、 |
|
|
日本で一番良いのは唐津、 |
|
|
唐津で一番良いのは自宅」 |
|
|
(妻が一番良いということでしょう) |
|
|
|
|
|
七、商品は言い値でものを買ってはならぬ |
|
|
ある時、翁が宮島商店の水主町の店の前で魚を売り歩く商人を呼び留めて、1匹7銭の小鯛を、2銭値切って5銭で買い求めようとした。これみた長男徳太郎氏が、「僅か7銭の小鯛を値切っては、宮島商店の名誉にかかわる。今後はそんなことはなさらないで・・・」と懇願された。 |
|
|
ところが、傳兵衞は、激しい言葉で「バカヤロウ―商人は、たとひ安い商品でも慎重に買え!」と諭された。 |
|
|
(あるいは傳兵衞、幼少の頃、天秤棒を担いで、唐津の魚を売りに行った頃の苦労が脳裡をよぎったのでしょうか) |
|
|
|
|
|
八、商人は思い切りが大切 |
|
|
傳兵衞翁は、明治初期から唐津の石炭を、京阪神や外国にまで売り捌いていた。石炭の相場、不慮の事故等で一回の積込で莫大な損失を蒙ることがあった。これに対して、その理由が分かればいさぎよく、その取引先に対して、云々せず見切りをつける寛容な点があった。 |
|
|
|
|
|
九、金銭の収支を明らかにすること |
|
|
翁は自分の小遣銭まで収支簿に記入されていた。ある日のこと「昨夜は、自分の財布を開いてみると、50銭足らなかった。一晩中考えたがみつからず、とうとう眠れなかったよ」と。 |
|
|
(これも、暗々の中に、私たちに対する訓戒の言葉だったのでしょう) |
|
|
|
|
|
このように、翁は、折にふれ時により実際的な形で教えられました。 |
|
|
かくの如く、翁は、折にふれ、実際にあたって教えられたので、私も、大きな誤りを犯さず今日があると感謝しています。 |
|
|
|
|
|
以上、高木利吉氏が伝える、七世宮島傳兵衞の言行録から、当時の宮島商店の雰囲気、七世宮島傳兵衞の人間性が浮かび上がってくる。 |
|
|
現在の企業がもつような社是、社訓はなくとも、彼の日常の座臥、何気ない会話の節々から滋味掬うべき人生哲学、職業観、倫理観を学びとりたい。 |
|
|
|
|
|
※次回は、“七世宮島傳兵衞翁を偲ぶ座談会”その他を予定しています。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|