私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

灯火親しむの頃、
秋の夜長に、読書を楽しむ。
しばし静かに、記憶の抽き出しから
日本語の二、三をとりあげまとめてみました。
“ことば”さまざま
(一)けじめ
 社会保険庁は、10月1日、公的年金の記録漏れの問題の「けじめ」として職員とOBに夏の賞与返納や寄付を求め・・・とマスコミは報じる。
 はてな、「けじめ」とはと考える。
 本来は、区別、わかち等の意味だったのが、道徳や習慣として守らねばならない区別、例えば長幼のけじめ等へと転化している。
 語源としては、「け」は別れて送り出す意味に「結び〆」が合成されたもの、または、「けつめ」の転用か、等々どうも定説はないようだ。
  江戸時代になって、卑しめられたり、咎められたりの感情が入り、現在は、けじめをつけろと云えば叱責、けじめをつけるとは贖罪の意味まで含まれているようである。
 どうも曖昧さが残る日本語特有の言葉だが。使う方、受ける方も勝手に解釈しているうちにもめごとも収まってしまう。
 何とも不思議な言葉ではある。
(二)もみじ
 秋、たけなわ、紅葉、黄葉が山野を彩る。
 「もみじ」という言葉が先にあって、紅葉、黄葉をあてたのだろう。となると、「もみじ」とは、と疑問に思っていたら、大岡信さんが教えてくれた。
唐津市浜玉町玉島川の紅葉
 紅の染料である紅花(べにばな)から「色を揉み出す」すなわち「揉出」の意味だという。
 紅・黄葉はと云っているうちに秋の山野は一挙に装う。それにふさわしい語感を持つ“もみじ”である。
 紅花から、旧制中学時代に薫陶をうけた花摘陸郎先生を思い浮かべる。
 数年前、先生のご令息にお会いしたとき、不躾にも、「花摘という姓は美しいですね」とお尋ねしたら、「花摘家は、山形で歴代、紅花の栽培、販売を業(なりわい)としていました。さらに名前は陸奥にちなんで陸郎とつけたのでしょう。何かあると“花ツムノベニ、ヒガーオチテ”と歌わされましたよ」と苦笑されていた。
紅花(べにばな) 「おいしい山形ホームページ」より転載
 先生とは、学徒動員で、寝食をともにしながら御指導を頂いた。今なお小柄だが誠実なお人柄が偲ばれる。
(三)いと(糸)
 いと(糸)も、もみじ同様美しい日本語のひとつだろう。
 「蚕の体が透明な液体でみたされ、小さな口から一心に糸を吐き出すと、空気に触れた瞬間、もうそれは寒天のようにかたまって、蚕とは別の『いと』になっています。こきざみにふるえながら、糸を吐きつづける蚕は・・・やがて蛹になって、空中に舞いあがることも果たせず自分の小さな城の中で死んでいきます」
 「いと」はいとう(厭う)、いとしい、いとおしい(可憐)のいと、その細きにより絶えるをいとうにより、糸と云う。と染織家、志村ふくみさんは随筆「一色一生」の中で。糸の語源を誌されている。
 糸、いと、という言葉の中に、生命の限りをつくして糸をつくり出す蚕へのいとおしさ、慈しみが秘められているとは・・・。
 日本語は美しい。
(四)いなせ
 プロ野球の話。
 「一、 二塁間に挟まれたマリナーズのイチローがタッチされる前に、すたこらとベンチに引き返した。これは手抜きではない。挟殺でミスをするのはプロの守りではない・・・
 また、二死から凡飛が上った瞬間、投手は後を振り返らず、さっさとマウンドを降りる姿は、箱庭球場の本塁打より、よほどプロを感じさせる。野手への信頼とプロとしての誇りがある。」
 以上は日経新聞、スポーツ面のコラム欄、チャンジアップに「いなせなプロ野球根性」と題して掲載されている豊田泰光氏の随想である。さらに、続けて、「こういうアドリブの利いたプレーは鯔背(いなせ)なプロの振るまいといえる。・・・もっともこれには相当高いレベルの技術をもつことが前提となるが・・・」
 “いなせ”とは粋(いき)、勇み肌のこと、今や全くの死語と化しほとんど「カッコイイ」にとってかわってしまった。
 鯔背、一説に江戸日本橋魚河岸の若者が髪を「鯔背銀杏(いなせいちょう)」に結っていたところから、粋で勇み肌の若者、その容姿や気風をいう。
 鯔(いな)とはボラの幼魚のこと、。どうして鯔の背の形が鯔背銀杏という髪型へと転化していったのだろうか。調べているがどうしても分からない。
イナの親魚、ボラ
 それはともかく、西鉄ライオンズの黄金時代2番、遊撃豊田の“いなせ”なプレーを思い起こしながら、この“いなせ”な記事を読み返していた。