私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 5月のコラムは薫風にちなんで“薫陶”について、思いつくまま書きつづっていたら、中学生時代、漢文の先生が教えてくれた“私淑”という言葉を思い出していた。
私淑
(一)ししゅく
 昭和28年、貝島炭鉱(株)に入社、何人かの上司に仕えた。その中に私より14~15年前に入社された先輩がおられた。心温まる雰囲気、知識は豊富、業務はテキパキ、直接の指導はうけなかったが、敬意を持って接していた。
 数年前、貝島炭鉱のOB会に出席したところ、その先輩の御令息をお話しする機会があった。
 「貴方のお父上には、直接の上司ではありませんでしたが、お世話になりました。“シシュク”していました」
 「そうですか。シシュクとはどんな意味ですか」
 私は、名刺に、私淑、と書いて渡しながら、
 「お帰りになって、調べてください。私の下手な解釈よりも・・・」
 その翌年、御令息と再びお会いできた。
 「昨年、帰ってすぐ『私淑』を調べました。
 身に余るお褒めの言葉で恐縮しています。
 亡き父も喜んでいることでしょう。ありがとうございました」
とこちらも恐縮する。
(二)私淑
 今なお、中学生のとき習ったこの言葉のおくゆかしい語感が好きである。
 その意味は、
 私は、「ひそかに」、淑は「良し(善)とする」の意。
 故人または遠方にいる人に対して、ひそかにその徳を慕い、直接教えを受けなくても、その人を手本として、自分の身を修めること。(角川漢和中辞典)とある。
(三)私淑と孟子
 ところで、私淑の語源を遡ってみたら、何と、孟子は孔子に私淑し、自らの身を修め、徳を磨いたという。
 孟子巻第八離婁章句に次のような一文がある。
 
 「予(われ)未(いま)だ孔子の徒たるを得ざりしも、
 予、私(ひそ)かに、諸(その道)を人に(聞きて)淑(善)くするなり」
 とあるのが、私淑の出典という。
 岩波文庫 孟子(下)を借りて、現代文を読みましょう。
 
 孟子が云われた。
 徳の高い君子でも、普通の人間でも、その残したもの(余沢)はおよそ5代、150年もたてば消えてしまう。
 ところが、私は不幸にも生まれるのが遅くて、孔子先生の直接の弟子にはなれなかったが、幸いに、その余沢を伝えた人から学んでひそかに自分の身を修めて善くすることができたのは、うれしいことだ。
 
 孟子は孔子に私淑している。
 孔子は紀元前552年生まれ、前470年に没。
 孟子の生まれは未詳だが、推定紀元前370年頃と推測されているので、両者の間には、約100年の歳月がある。実質的に、孔子の没後、孟子が成人する期間を入れると130年ぐらいだろう。
 100~130年といえば、3~4世代だから、孟子が孔子の“薫陶”を受けるはずはない。
 
 孔子、孟子が生きた中国は、いわゆる「春秋戦国時代」である。春秋時代は12列国、戦国時代は7雄と抗争激しく、軍事に明け暮れつつも、商工業は発達する。社会思想、政治論議においても、百家争鳴、侃々諤々(かんかんがくがく)の論争をくり広げ、政治、経済、軍事、外交などで人材の“引き抜き”も激しかった。
 このような環境の中にあって、孟子は、墨子をはじめとして老荘の思想、法治国家を主張する諸家をしりぞけ、孔子の弟子、曾子、子思を通して受け継がれてきた“仁”の道を正統と考え、儒教を守っていく。
 
 儒教3,000年、私たちは、今なお、ときに、中国の古典、論語、孟子等の言葉を人生訓、処世訓として、引用し、自らを戒めている。また、中国の古典は私たちに「私淑」といった美しい日本語を残してくれている。
 中国の漢語を使い続けた日本語の不思議さを感じつつ、聖人君子に私淑せずとも、私たちの周りには「立派な人」が多い。いつまでも、そんな人に私淑しながら、人格の陶冶につとめたいものである。
参考文献
世界の名著 孔子 中央公論社 貝塚茂樹 著  
世界の名著 孟子 中央公論社 貝塚茂樹 著  
中国文明の歴史 春秋戦国 中公文庫 貝塚茂樹 著