私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 平成21年、新しい年を迎える。
 1月16日生まれの私も79才、来年は八十路に踏み込むことになると、ふと、幼い頃、若いときの日々、お世話になった先生の面影を偲ぶことがある。
 薫陶をうけた数多い先生のうち、戦時下に指導をうけた先生が思い浮かぶ。
 平田戸司夫先生である。
平田戸司夫先生に捧げる
平田戸司夫先生(昭和18年)
(一)弔辞、昭和63年7月、先生は傘寿を前にして、逝去された。
 「昭和20年8月15日 終戦の詔勅は下された。
 『月々火水木金々』の意気込みで『一機でも多くの飛行機を前線へ』の要求にこたえて必死に頑張った生徒たち、彼等に今日の敗戦を何と伝えようかと迷った。宿舎の廊下に生徒を整列させ「とうとう日本は負けた」と言ってしまった。
 すすり泣きの声が一斉にワッと泣き声に変わった。あの生徒の嗚咽こそ祖国の運命への思いやりと、長い動員生活の万感の総決算と思う」
 
 先生が数年前、私どもに寄せられた終戦時の回顧の一節です。すでに43年の歳月が流れました。私たち唐津中学第47・8期生の中学5年間の青春は、この一瞬に凝結されたと言っても過言ではありません。
 昭和17年、日本が太平洋戦争の緒戦の戦勝気分に燃えていた年に入学、戦雲急を告げるに従い、学徒動員令により、中学3年夏からの南風崎、佐世保鴛の浦での炎天下での土木作業、明けて中学4年からは、大村第21航空廠に馳せ参じ、航空機の生産に励みました。昼は空腹、睡眠不足に悩まされ、12時間を超す労働、夜はノミ・シラミ、加うるに、空襲警報、防空壕の中で爆弾の恐怖にさらされながら、先生と寝食、生死をともにした数ヶ月でございました。その間、齢十五の幼い少年百数十名をまとめ、怪我と病気、不測の事故を慮りながら責任をもって引率指導された先生の御苦労、御心痛の程はいかばかりだったことでしょうか。
 私の動員日誌の中に、
 「三月三十日 平田先生 帰省される
  三月三十一日 平田先生 まだ帰られぬ、夜遅く帰られる」
動員日誌
 短い文言ながら先生のお姿を追っておりますのも、先生が見守って下さっているという思慕の念があったからでしょうか。
 当時、先生は、ともすれば緩みがちな若い幼い私たちの志気を鼓舞するため、時に気合を入れる鉄拳を飛ばされました。しかし、鉄拳をうけた友人たちは、今は明るく「鉄拳をうけたからこそ今の私があるのだ」と顎を撫で、その感触をなつかしむかのようであります。
 こんな激動の中、とくに鴛の浦での休日や夜には、今は亡き花摘先生とともに国漢・数学をねんごろに教えて頂きました。とくに先生の指導にあうと、代数幾何の難問・奇問が立ち所に解決するのですから、今もって不可思議のひとつでございます。 あるとき「先生、どうしてあんなに分りやすく教えられるのですか」と尋ねますと、「数学嫌いを絶対につくらんという信念だよ」と破顔一笑なさいました。私たち同期生で数学嫌いは、殆んどいなかったのではないでしょうか。厳しい、やかましい先生でした。しかし、こんな心温まることがございました。
 十数年前の同期会の席上、先生にサインを、と色紙をさし上げますと、「僕のアダ名は竹馬だったよな」と、眼を細めながら御性格そのものの凡帳面な字で、竹馬と書かれました。ところが、竹と馬をくっつけて書いてあります。 そうしますと、「篤」の字ではありませんか、先生らしいユーモアに一同苦笑した思い出がございます。
 先生とは激変の中、苦労致しました。そして御心配もおかけしました。しかし、その中に生き甲斐も見出しました。
 先生80才の寿を前にして、眼の病に悩まされながら頑張っているよ、と私に一句をお寄せ頂きました。
 
   見ゆる眼あり
   残生豊かに今日も生かさる
 
 終始眞摯な態度を崩されず教育にその生涯を捧げられ、なお、余生を力いっぱい生き抜かんとされた先生のご教訓、身に沁みております。安らかに、お眠り下さい。
合掌
昭和63年7月6日
        唐津中学第47・48期卒業生
               代表宮島傳二郎
(二)平田先生を偲ぶ
1.昭和17年4月、佐賀県立唐津中学へ入学
 小学校から中学へ、希望に胸をふくらませ、鶴城門下をくぐった。いまだ戦勝気分、 戦争中とはいえ、明るい雰囲気だった。
中学となり、いささか大人になった気分と、英語・数学等、レベルの高い学習を期待していた。
 1年3組、最初の担任が平田先生だった。
 長身痩躯、小学校時代の甘え加減な気持ちをぐっと引き締めるような語り口には、思わず緊張したものである。
 
2.先生の授業
 幾何(当時は数学第二類と言ったと思う)の手ほどきをうけた。
 基礎となる三角形の合同。その定義をくり返し、くり返し説明される。 そして、十二分に頭に入ったところで、かなり難しい応用問題を、それも授業時間の最後の頃に、投げかけられて、授業が終わる。そうすると、不思議に解答への意欲が湧いてくる。友人等と、休憩時間に鳩首を集めて考える。
 今、思い返しても、心憎い程の生徒操縦法である。
 1年の2学期だったろうか。
 いつものように、授業の後半に、応用問題を出された。各自、生徒は頭を抱え、思案する。私も、一所懸命考え、補助線を引いたりして、努力したが分からない。そのうち時間が切れ、放課となった。
 「宮島君、あとで職員室に来なさい」
 廊下でスレ違ったとき、先生から声をかけられた。別に悪いこともしていないのだが、と思いながら職員室に入った。
 「宮島君、あの問題は、君が書いている補助のラインがみつかれば、もう少しで解けるよ。もうひと踏張り考えてみなさい」
 先生は授業中、机の間を廻られながら、眼ざとく私のノートを御覧になられ、私が解答へ今一歩のところまでこぎついていることを、見抜いておられたのだろう。
 「ありがとうございます」と頭を下げ、職員室を辞した。
 その後のことは、記憶にうすれているが、多分、立ちどころに問題は解けただろう。 
  中学1年生。特別に声をかけ、励ましてもらった感動は、教室での謹厳さとは違った。先生の笑顔とともに、今なお忘れ難い。
 
3.昭和17年。父の死に際しての激励
 中学1年の2学期のことである。その年の8月、頑丈だった父が、突然亡くなった。幼いながらも、やはりショックがあったのだろうか。2学期の中間考査には、成績が30番ばかり一挙に下がっていた。
 少々不本意でもあった。成績表をもらって気落ちしていた私に、平田先生から
 「お父さんが亡くなられて、気落ちしたかな。学期末には頑張れよ。君の力ならすぐ挽回できるよ」
 と励ましてもらい、気持ちの上でスーっとした記憶がある。おかげで、期末にはもとに戻った。
 
4.嫁(次男の)も、先生の薫陶をうけていた。
 20数年前、次男の嫁(当時は婚約者)がきたときのこと。
 たまたま、彼女の学生時代の話になった。彼女は、中学時代数学が不得手であったため、友人の紹介で、平田先生の塾に通った、という。
 私の尊敬する先生に、嫁となる彼女が、直接、手をとって教えてもらっていた。 その偶然を喜んだ。
 彼女は、こう語ってくれた。
 「先生の塾は評判がよく、入るのに難しかったのですが、運よく入れました。数学は不得手だったのですが、先生の塾に通うようになってから、数学が苦にならなくなりました。それよりも、塾に行き、先生が教室(お座敷ですが)に入ってこられるとピーンとした緊張感が漲るんです」
 彼女の話に耳を傾けながら、私はいつのまにか、40数年前の唐津中学、木造校舎の教室の中で、先生の授業を受けている中学生になっていた。
 
5.クラスの中のトラブルの教訓
 中学1年の夏だったと思う。
 中学の生活にも馴れ、新入生が少し横着になる頃である。
 そろそろ物資も乏しくなってきた。何かの配給券の分配のことで、クラスの中でトラブルがあり、中庭で何人かがもみあった。
 このことが先生の耳に入り、日頃の謹厳さに更に厳しい態度と口調で、クラス全員を叱責された。何人かの友人は、教壇の前に呼び出され、鉄拳をくらい、最後列の私の席まで吹っ飛ばされた。私はあまりのすさまじさに縮みあがってしまった。
 一段落したあと先生は、クラス全員、一人ひとりを呼び寄せ、話を聞かれ補導され励まされた。
 私に対しては、
 「君は副級長だから、もみあっているとき、止めてほしかった」
 と、言葉少なに諭された。
 私自身、この騒ぎに、傍観的な立場にあったことを反省した。
 
6.戦後、昭和20年9月、4年生の「授業拒否」
(1)終戦後の授業
 昭和20年、終戦で8月16日、唐津に帰った。
 9月1日から2学期、舞鶴城下の唐津中学の校舎に戻った。敗戦後の社会不安も、九州の片田舎までは押し寄せず、折からの食糧難にもかかわらず学校内はのびのびしていた。
  しかし、動員生活の束縛と重労働から一挙に自由ヘ、学徒動員中の重労働からの解放感からか、勉学への意欲も湧いた。しかし、一方、軍隊生活を経験した人たちは気持ちの切り換えが大変だったろうと同情する。
 2学期になっても、まともな授業はなかった。英語、数学、体育などの授業はあったが、イデオロギー、政策に関係する歴史、国語などはなく、午前中3、4時間だった。
 とくに、英語の2年間はブランク、全くの初歩からの再出発、数学は平田先生から微積分の初歩を学んだように思う。
 
(2)「授業拒否」
 ところが、9月の中旬頃だったろうか、そろそろ社会的な不安が、若い我々にも無意識のうちに、しのび込んできたのだろう。誰が言い出したのか「授業拒否」、いわゆるストに入り、午後から舞鶴公園に集まり、決議し、要望書を級長3人で職員室に持っていくことになった。
 私は2組の級長、1、3組の級長と3人で職員室に入った。まだ世なれもしない真面目な3人、面と向かって先生に手渡すこともできず、先生たちの留守を幸いに、「要求書」なるものを机の上に置いて帰った。
 その内容は、今から考えるとたあいのないものだが、当時の中学生にとっては、重大極りないことである
 要求の最大の項目は、
 「動員中ある先生は、生徒の親から送ってくる小包を検査すると言って開封していた。そんな先生は退職させよ」 であった。
 他にも要求項目があっただろうが、今は記憶にない。
 4年生は全員舞鶴公園に登った、ということだが、私は、要望書を職員室に持っていったためか、皆と行動を共にしていなかった。ただ、当時の私の気持ちとして、学校に要望書を出すとか、先生に直接話しをせず要望書を置いてきたとか、そんな後ろめたさがあったようだ。逃げるように校門を走り抜けたことを今も生々しく思い出す。どうしたいきさつからか、友人のひとりと一緒に校門を出ている。そのとき、先生が呼び戻そうとされる声をふり切って走った ― 友人は回顧しているが、私は、さだかに覚えていない。
 真直ぐ家に帰るのも気がひけたのか、新興町の友人宅で時を過ごし帰宅した。案の定、担任の花摘先生から「すぐ学校に来るように」との電話があっていた。「ああ、ストライキのことか」と、足取りは重かったが、何はともあれ一人で再登校した。
 
(3)事件解決のために
 職員室の隣の宿直室に、平田、花摘先生が待っておられた。平田先生は数日前から休んでおられた,。もともと痩せておられるのに、心配されていたのだろう、その日はとくにやつれておられていたのを思い出す。ああ、すまないな、といささか自責の念にかられた。
 「小包を開けた先生とはどなたかね」
 弱々しい先生の言葉につまった。
 「言い難いだろうが、頼むよ」
 しばらく黙っていた。三人の間に、沈黙の間があった。しかし、これは言わねば、要望書を出した意味はないと、思い返し、
 「○○先生です。みんな、動員中から不平を言っていました」
 「そうか・・・」
 「君たちは、大事なときだから、慎重に・・・」
 ストを中止せよ、とかいわゆる説教めいたことは、ひと言もなかった。
 「よく分かったよ」
 平田、花摘先生は、笑いながら帰して頂いた。
 翌日、校長先生自ら、剣道場に集まっている4年生全員に話をされた。私は立場上、なだめ役的な発言口をしたように思う。
授業拒否をやめ、すぐ平常にかえったが、間もなく、その先生は退職されたようだ。
 今から考えると、思想的な背景もなく、16、17才の少年の動員中の不満がちょっとしたことで、爆発したのだろう。マスコミの態勢も整っていなかったのか、新聞にも載らずに済んでいる。
 
(4)「お騒がせしました。すみませんでした」
 卒業後30年余。同期会のとき、「あのときは、すみませんでした」と平田先生に謝りながら、このことをお話ししたことがあった。
 先生は、
 「僕は、ちょうど腹をこわしており、きつかったよ」
 と、謹厳な先生が、とき折りみせられる、あの細い眼の笑顔で答えられ、内容には触れられなかった。
 お元気な先生に、もう一度、
 「お騒がせしました」
 と、お詫びを申し上げておかなかったことを悔いる、この頃である。
合掌