私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 炭鉱会社に勤めていた同窓会の宴の席上、たまたま、お寺が話題になった。
 「ミヤジマさん、一度、『鉄眼の一切経』を御覧になってください。仕事に行き詰った時、悩んだ時にお参りすると、感動しますよ」
と勧められた。
 「鉄眼」、私の脳裡に、小学校の国語読本「鉄眼の一切経」が思い出された。
 
鉄眼の一切経
鉄眼禅師像
黄檗山宝蔵院ホームページより転載)
(一)鉄眼の一切経
 小学校6年(昭和16年)、国語の教科書で「鉄眼の一切経」を学んだ。
   要約すると、  
 一切経は、佛教の書籍を集めた一大叢書で、佛教を学ぶものは宝として尊敬する。しかし、その巻数は数千と莫大であり、これを出版することは容易ではない。
   今から二百数十年前、宇治、黄檗山萬福寺に鉄眼という僧があり、一代の事業として一切経の出版を思い立ち、広く各地をまわり資金を募った。ようやく、資金がととのったので、鉄眼は大いに喜び、まさに出版に着手しようとした。  
 ところが。たまたま大阪に出水事故があり、多くの死傷者を出し、家屋は倒壊、産を失い路頭に迷うものその数を知らず、鉄眼はこれを見て、
 「一切経を出版するのは佛教を盛んにするためであり、佛教は人を救うためにある。一切経の出版はもとより必要だが、飢えた人や人の死を救うのは、更に重要である」
 と考え、喜捨した人々の同意を得て、その資金を悉く救助の用にあてた。
    鉄眼は少しも屈せず、再び募金に着手し努力すること数年。今度は近畿地方を大飢饉が襲った。鉄眼は意を決し、出版を中止し、その資金をもって、再び多くの人を救った。  
   鉄眼は終に奮って三度目の募金をはじめる。鉄眼の深大なる慈悲と初一念をひるがえさない熱心さは、人々を感動させ、喜んで寄付するもの多く、製版印刷の業は、着々と進んだ。思い立ってから17年、一切経6,956巻は終に完成、これを機に鉄眼版と称し、一切経が広く読まれるようになった。この版木は今も萬福寺に保存され、倉庫に満ち満ちている。  
   福田行誡(明治維新前後の浄土宗の名僧)が感動していわく、「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」と。  
 
尋常小学 国語読本巻十一 第二十八課 鉄眼の一切経
 
   あらためて、当時の教科書を読んでいくと、今を去る70年余、紅顔の美少年(?)だった頃、子供心に、鉄眼の初志を貫き徹す不撓不屈の精神力に感心し、人のためになるとはどんなことかと感動した想いが蘇ってきた。  
(二)黄檗山 宝蔵院へ
 思い立って、冬の京都へ。妻を伴い知恩院、泉涌寺を尋ね、合掌。1月としてはめずらしく暖かい宇治の黄檗山萬福寺に詣でる。山門を出て右に折れたところに、一切経木版を蔵する、宝蔵院がある。予約もせずにお伺いしたにもかかわらず、院主様は丁重に案内してくださる。
 
 
 黄檗山萬福寺天王殿の布袋尊    黄檗山萬福寺の開版
木魚の原型(時を知らせる)
 
    今日は幸いに、摺(すり)師さんが印刷されてますよ、とのこと。  
 
宝蔵院にて
後の建物の中にぎっしりと版木が保存されている。
    宝蔵院は3階建、正面から入る。鉄眼禅師像に手を合わせ、2階へ、そこには縦26m×横82cm、厚さ1.8cmの版木が堆(うずたか)く積まれている。まさに“充棟”、薄暗い。眼が馴れてくる。版木に最適と言われる『桜の版木』に触れる。この版木を彫った人のことを思うと、思わず敬虔な気持ちになる。
 
 吉野桜は「一枝を伐るものは一指を切る」と、本来、伐採禁止である。しかし、当時の奈良奉行が「奉行は一代、佛教の興隆は萬民萬代」と特別に許可したと曰(いわ)くつきの桜の版木である。
 
 
桜の版木 26.3cm×86.2cm 延宝6年(1678)完成 国重要文化財
黄檗山宝蔵院ホームページより転載)
 
 この版木に埋もれながら、摺師さんが黙々と印刷されていた。火災予防のため、暖房用具はなく、思わず、「タイヘンですね」と声をかける。
 木版に墨をつけ、黄色半紙をのせ、軽く叩く。
   「この万遍なく墨を染みこませるのが難しいんですよ」とのこと。しばらく手許を見つめていた。  
   版木は6万枚、全巻6,965巻、現在日本の佛教各宗派のお経は、ほとんどこの一切経に含まれているとのこと。書体は、いわゆる明朝体で、現在もこの字体が印刷に使われているのは皆さんご存知の通り。  
 もうひとつ、驚いたのはこの版木は1行20字、1頁10行、見開き2頁、今私がペンを走らせている400字詰め原稿用の始まりでもあったこと。写経は古くから1行17字で決まっているが、頂いた宝蔵院の般若心経は20字となっている。中国の木版の影響だろうか。  
   この1枚の版木の表裏に大半紙4枚のお経が彫ってある。今なら数10万円はかかり、全巻を印刷出版するには10人で10ヶ月はかかるでしょうとのこと。  
   鉄眼は当時、仕事を失った浪人たち等、毎日100人ぐらいは雇って、枠をとる人、一字一字彫る人と、分業制、いわゆる流れ作業を採用、10数年かかったと言うから、現在風に言えば、雇用確保にもなっていたのだろうか。  
   いずれにしても、これだけの大事業を成し遂げた鉄眼という僧の精神力、実行力には頭が下がるばかりである。  
(三)鉄眼と一切経
 何が鉄眼をして一切経の出版へ向わせたのだろう。宝蔵院から帰宅し、にわか勉強をする。
 まずは、黄檗宗と隠元(※註)との邂逅である。
 鉄眼は寛永7年(1630年)、熊本県益城郡に生まれ、13歳にて出家、21歳で京都を出て、浄土宗門下に学び、自らの進むべき道を模索する。26歳の時、長崎の興福寺にて来日した隠元と出会う。さらに修行を重ねるうちに、一切経刊行の意図を固めていく。
 寛文6年(1669年)、黄檗山萬福寺に隠元を訪ね、一切経の木版を刻蔵する計画を伝える。このことを聞いた隠元は、非常に喜び、中国から持参した一切経と土地を与え宝蔵院を建て、一切経の出版を援助した。
     
 
隠元(※註)
 隠元は中国の名僧、1592年(明の時代、日本の文禄元年)中国の福建省生まれ、禅宗、臨済宗を学び、40歳のとき、黄檗宗(臨済宗の分派)に進み、中国の萬福寺復興する。宗教活動とともに伽藍の整備、諸事業(印刷局ほか)を起こし、事業家としても活躍する。
 
     
   隠元は、63歳とき、長崎の興福寺の招請をうけ、中国から日本へ渡ることを決意し、承応3年(1654年)の6月に長崎に上陸した。  
   中国僧の渡日は奈良時代の鑑真が最初だが、日本に宗教的、社会的影響を与えた点については隠元も鑑真に引けをとらない。  
   随従した僧侶30数名を数え、その他今なお、身近な例として、隠元の名をネーミングしたインゲン豆、レンコン等の食物を普及させ、美術、書画、骨董、生活習慣等々、数え切れぬ程のカルチャーショックを与えたことだろう。  
   もちろん、お経は一切経はじめ持参したであろう。すでに中国の萬福寺では、「刷印楼」と称する印刷所、出版広報局のような組織設備もあったことを、鉄眼は十分に認識していたであろう。  
   また、黄檗宗は、禅宗の臨済宗から分派したといわれ、禅として修行にゆとりができた場合は教学を学べという、「教禅一致」の信念があり、一切経の研究、刊行に何の抵抗もなく、むしろ隠元ブームが追い風となったようである。徳川幕府の設立後、漸く経済的な安定とともに、一切経の刊行は当時の仏教界に全国的な規模でひろまっていったことだろう。  
     
   いずれにしろ、鉄眼の一切経に懸けた執念、情熱は今なお宝蔵院を訪ねる人々に深い感銘を与えている。機会をつくって、もう一度訪れたいものである。  
参考文献
百寺巡礼第九巻 五木寛之 著 講談社文庫 
日本の禅語録第17巻 鉄眼 源了圓 講談社