私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 5月末から6月へ、沖縄普天間基地の移転問題はどうなるのだろうか。
 日本の安全保障問題がクローズアップされる。
 今を去ること、60年、朝鮮動乱が勃発した。
 そのときの不安が脳裡をよぎる。
 
朝鮮戦争に想う。 ~基地問題から~
 
(一)九州大学入学、その教室
 昭和25年4月、九州大学法学部に入学する。漸く学生生活に馴れる頃、刑法の講義に耳を傾ける。
 「刑法総則上の案件を“構成要件”と称し、違法性・・・」
 と当時、九州大学の新進気鋭の助教授、井上正治先生の講義に熱が入ってくる。
 突如、ゴーゴー・・・とアメリカ軍の航空機が爆音を響かせ校舎の上を飛び去る。アメリカ軍の航空基地が九大の箱崎キャンパスから数キロの板付飛行場(現在の福岡空港)になり、そこから朝鮮へ飛び立つのだから、その爆音たるや凄いものがあった。
 井上先生は途端に沈黙。恨めしげに天井を見上げられる。静かになると、再び講義に入る。この回数が日を追う毎に多くなる。
(二)朝鮮戦争、勃発
 昭和25年6月25日、北朝鮮はソ連軍の最新鋭T34戦車を先頭に突如、38度線を越え、韓国領土に侵入。朝鮮動乱が起こる。当日は日曜日、不意を突かれた韓国はわずか3日後にソウルを占領された。急遽、日本から応援に馳せ参じたアメリカの応援も空しく、1ヶ月後の7月末には韓国軍は釜山を中心とした半円形のわずかな土地に追い込まれる。
 しかし、北朝鮮軍はこの頃になると補給路が伸び切り、弾薬食糧が不足する。逆に、制空権、制海権はアメリカが握っており、輸送ルートへの空爆が加わる。爆音のため授業が中断したのはこの頃だったのだろう。北朝鮮の補給路は完全に絶たれた。さらに韓国、国連軍が仁川に上陸したため北朝鮮軍は背後からも攻撃を受け、バラバラに乱れ38度線を越え、北へ北へと逃亡する。
 北朝鮮軍を追走し、韓国・国連軍が北朝鮮を奥深く追い込むと、新しい軍隊と衝突する。実はこの軍隊、中国が自国の安全を保つため送り込んだ「義勇軍」であり、驚異的な人海戦術により激しく反撃してくる。
 以後、首都ソウルの争奪戦が続けられたが、結局38度線で膠着状態となる。当時の国連軍司令官マッカーサーは中国への原爆の使用を申請するが、トルーマンは却下する。トルーマンはこのため、マッカーサーを解雇すると、「老兵は死なず去るのみ」と名言を残し退任する。
 1951年(昭和26年)、ソ連の呼びかけで休戦した。
 朝鮮動乱は、勃発後、約1年間、両軍は、朝鮮半島を一往復、戦闘を繰り返し、その結果はすべてのものを破壊、焦土と化し、民族は二ヶ国に分離、その悲運は痛々しい限りである。
(三)朝鮮戦争の日本への影響
 朝鮮戦争の1年間(昭和25年~26年)は、九州、福岡と一衣帯水にある釜山にまで戦火が及んでいたのである。当時、私は漸く20歳。時には、戦争への恐怖心が起こってはいたようだが、比較的冷静であった。第2次世界大戦後、5年、日本は戦争はしないとの確信とアメリカの軍事力への信頼があったからだろうか。
 今、考えると、第2次世界大戦直後は極度の不安に襲われていたが、その後5年間で落ち着いてきたものの、大戦後のアメリカ対ソ連の対立、イデオロギーの対立、軍事力、経済力の競争等、いわゆる“冷戦”はわれわれ少年の理解を越えていたようである。
 
 この朝鮮戦争は、当時の日本では対岸の火事と手を拱(こまね)くことは出来ぬ程のショックであった。いずれアメリカの占領下から独立する日本にとって、いやでも安全保障を考えねばならなくなってくる。アメリカは、当時日本に進駐していた軍隊を朝鮮へ派遣していたので、日本の防衛力、安全維持は全く手薄になっていた。このため、マッカーサーは吉田首相へ「警察予備」の設置を指令、これがその後、保安隊、自衛隊へと発展することになる。
 
 一方、日本の経済はドッジ・ラインの経済安定計画と輸出不振から恐慌的色彩が濃く、各産業、企業は深刻な不況に見舞われていた。アメリカは朝鮮戦争遂行に必要な物資を日本に発注したので戦後の復興からなかなか立ち直ることができなかった日本経済は一挙に回復し、以降の高度成長の緒をつかむことになる。
 
 さらに朝鮮戦争は、結果的に講和条約の締結を促進する。日本国内は単独講和か全面講和かの激しい論争を呼ぶが、アメリカは早急に日本を自由主義諸国の枠に入れるべく、日本もこれに応えて、単独講和へと進み、1951年サンフランシスコでの講和条約となり、同時に「日米安全保障条約」が結ばれていく。
(四)日本の安全保障は・・・
 そもそもは、1910年の「日韓併合」から朝鮮半島は日本の支配下にあったのが1945年(昭和20年)、第2次世界大戦での日本の敗北により、日本軍隊の武装解除をするため、北からソ連軍が南下したのをみたアメリカは焦りを感じ、南から上陸、それぞれの軍隊が北緯38度線をはさんで占領することになる。このことが、朝鮮半島の悲劇のはじまりである。
 当時、よく日本は分割して進駐されなくてよかったなあと無責任に会話したものだった。
 1950年(昭和25年)、朝鮮戦争は米ソの対立、冷戦の落し子と言われ、60年後の今日まで、半島の人々は不幸な境遇に見舞われ続けている。
   幸いに、日本は日米安全保障条約締結以来、約60年、その基盤の上に立って存在してきた。当時の九大の教室での爆音を思い起こしながら、今、朝鮮戦争を復習してみた。  
 当時の東南アジア、日本、韓国、北朝鮮、中国、台湾等々は、この条約によって、平和が維持されてきた。締結当時と現在の国際情勢は、基本的に変わっていないと思われる。鳩山政権は、基地問題の負担の分散、軽減に終始し、日本の安全保障をどう考えるか、基本的な国際情勢の綿密な分析、軍事力はどう配置すべきか、東南アジアの平和はどう維持するのかアメリカとはどんな関係を維持するのか等々、国民への説明が疎かになっているのではないだろうか。
 このコラムは6月になって掲載することになるが、5月決着が、5月決着にならぬよう期待している。と同時に、私たち国民は、長い間の平和に馴れすぎている。もう一度、日本の安全について熟考すべき時である。
参考文献
そうだったのか!現代史 池上彰 著 集英社文庫
世界の歴史16 現代-人類の岐路 松本重治 編集 中央公論社