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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
灼熱、紺碧の空に飛ぶ白球を必死に追う若人達の活躍に甲子園の大鉄傘がどよめく。
勝てば、静かに母校の校歌が流れる、青春の一瞬!である。
私にとって校歌といえば、(旧制)中学時代の校歌が蘇ってくる。 |
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佐賀県唐津東高等学校の旧校門 |
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(一)佐賀県立唐津中学校、校歌 |
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昭和17年春、佐賀県立唐津中学校(現唐津東高校)に入学、昭和20年8月の終戦は、中学4年生、激動の中に多感な少年時代を送った4年余、若さにまかせて、蛮声を張りあげ、あるいは、ひとりつぶやいた校歌は心身に沁みついている。 |
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「宇宙のみ命」にはじまる、光、力、のぞみの男の子(おのこ)・・・は格調高く、雄大、若人たちを思わず、奮い立たせてくれた。 |
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作詞は、佐賀県立唐津中学校・第6代(大正11~14年)校長 下村虎六郎、後年の「次郎物語」の著者、下村湖人である。下村湖人は、明治17年(1884年)佐賀県神埼郡千歳村(現千代田町)大字﨑村にて、父
内田郁二、母 ツキの二男、虎六郎と命名。幼い頃は恵まれず、10歳のとき、母 ツキが29歳の若さで死亡。12歳のとき、継母を迎える。 |
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明治30年(13歳)、佐賀中学への入試に失敗するが、翌31年に入学。明治32年、父、倒産のため、佐賀市へ転居、父、税務署に勤める。 |
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明治36年(19歳)、佐賀中学卒業、第五高等学校(熊本)文科へ入学 |
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明治39年 第五高等学校卒業、東京帝国大学文科入学 |
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明治42年 東京帝国大学卒業、志願兵として佐賀連隊へ入隊、除隊。 |
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明治44年 27歳にして佐賀中学教諭 |
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大正2年 29歳にて、下村家長女、菊千代と結婚 |
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以後、唐津中学教頭、鹿島中学校長、大正11~14年、唐津中学校長を勤める。 |
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作詞者、下村湖人の唐津中学就任までの前半生をたどると、佐中-五高-東大とエリートコースを歩んだようにみえる。しかし、結婚後の湖人の心境を長女
明石春代氏は、その著書の中でこう語っておられる。 |
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「結婚して以来、わずかな6、7年の間に身近な人たちの生と死、そして盛衰、別離など、激しく明滅する宿命の灯の渦のなかで・・・・・・さまざまな試練に耐え抜いて、『任運騰々(にんうんとうとう)』の境地にたどりついた。 |
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運命がそう命ずるならば・・・、与えられた運命の中で最善を尽くして生き抜いてゆけばいいのだ」と述べられている。 |
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湖人は五高在学当時からその才能を認められ、東大時代には、厨川白村から英語を学び、高田保馬とは肝胆相照す仲、夏目漱石の講義を、小宮豊隆、鈴木三重吉等と机を並べて聴く一方「帝国文学」の編集にたずさわり、文学で身を立てようと思っていた。 |
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しかしながら、家庭の事情から、請われるままに佐賀中学の教鞭をとることになり、文学界で活躍したいとの強い希望を断念し、青少年教育へ全精力を傾注することを決心する。爾来、15年余。唐津中学の校長に赴任したのは39歳、最も脂ののりきった頃だったのだろう。唐津中学の新しい校歌制定を思いたち、この名校歌を残すことになる。 |
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(二)光、力、のぞみの男の子 ― 新校歌の作意 |
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私の手もとに「鶴聲 第4号 大正13年1月」のコピーがある。 |
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◆会長訓話◆ |
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光・力・望 ― 新校歌の作意 ― |
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会長 下村虎六郎 |
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かなり長文の解説文である。 |
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あらためて熟読吟味した。しかし、さすがに文学的、哲学的、深奥な思索から生まれた歌詞だけにその作意を解説した論文はすこぶる難解であった。私なりに咀嚼しつつ、あえて原文に忠実にまとめてみる。 |
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(1)学校の精神、校風のひとつの表現としての「校歌」がくるくる変化することは好ましくない。しかし、校歌は国家と異なり、時代の変遷に伴い、あるいは精神主義の流れに応じて、改作する必要もある。現在(大正末期)の生徒諸子は、すでに内面化している、いや、是が非でも内面化せざるをえない時機に来ている。今日では、個人が直ちに国家へ、国家が世界に連なっている時代である。新しい校歌の条件として、あまりに濃厚な地方色は、内容を空疎にし、一校の精神の器局を小さくするようである。唐津中学という一校内に起った響が、伝わり伝わって全国の青少年に共鳴と同感を呼ぶような歌詞を進めていくのが私の理想である、との考えから、一切の固有名詞を避けることにより、歌詞の普遍性を求めた。しかし、私もこの美しい海と山のたたずまいを忘れかねていたとき、「光の海」と「力の山」の二葉が私の頭にひらめいた。 |
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もうひとつ、私の念頭にあったのが「理想の暗示」であった。 |
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理想を掲げるのに、「智」、「徳」といった概念の羅列ではなく、「理想の奥にひそむ尊いもの」を探し求め、あくまで暗示的に理想を掲げてみた。このため、断言的に「我等は・・・光、力、望の男の子と、吾等自身を理想の具象化と見る事」によって、より暗示力を強めようと思った。 |
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また、校歌は、あくまで「うたふ詩」である。「読む詩」ではない。元気よく、うたふ詩においては、言葉の数を欲張らず、単純化し、明確化することと、同一の言葉を調子よくくり返すことに留意した。このため、作曲される方には苦心されたことと思う。 |
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(2)次に歌詞の内容について |
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第一節の中心は、「光」の一語、光は太陽の白光、七色の融合である。人間にあってはあらゆる人間―本能・欲望・肉力・精神力の純化であり、霊内の燃焼である。・・・燃焼しつくして、自己指導の一路をたどる、これが人間の第一義であり、理想への合体である。理想のシンボルは宇宙の生命たる大日輪、その反射は大海の波を司る。・・・要するに本節は理想へのあこがれとその体現とによる自己純化の姿を歌わんとしたものである。 |
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第二節の生命は「力」である。 |
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理想によって純化された吾々は、地上の仕事に帰らねばならない。宇宙の柱たる大地は、みどりに燃えたっている。吾々の持つ理想の光は力となって現れる。隆々と突起する「力の山」こそ、吾々の働きを表現する無上のシンボルではあるまいか。 |
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吾々は光に陶酔してはならない。光に陶酔するものは未だ眞に光を呼吸していない。理想より現実へ、「光」より「力」への表現力を有して、はじめて、眞人の名をほしいままにしうる。 |
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光より来たらざる力は、無価値である。 |
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第三節の中心は「望」である。 |
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「光」が「力」となり、「働き」となる事は、人間を単独の個体とみるときは、ひとつの完成であるが、宇宙人生を統一体としてみる立場からは不十分である。光と力の具現者が共同の目標に向って協力し、常に何ものかを創造していくところに、「光」も「力」もその価値を発揮する。そして、想像あるところに「望」が生まれる。「望」は将来への躍進。「協力」の結帯は過去の歴史である。過去は共同目標のために今日まで創造されてきた地盤である。その地盤の中で、真の統一性と向上性をもつ地盤は祖国である。・・・吾々の協力の第一歩は祖国の守護でなければならない。祖国はその自信永遠の「光」と「力」とを溶かし、吾々に新生命創造の「望」を与える。吾々は一人一人として、「光」に蘇り、「力」に目覚め、祖国の地盤に立つ「協力」によって永遠に創造し、躍進する「望の男の子」になっていく。 |
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第四節は、以上の結びとして、最後に、全人類全体社会の一体観を掲げて献帰の魂をそそぎたい。私のいわゆる「一体観」とは個体と普遍とを切り離さない、対立的に見ないことである。我と国家と世界は、広い網のようなもので、個はそれぞれの網の結び目にいる。命はただひとすじの糸である。 |
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吾々の運命は国家の運命であり、国家の運命は世界の運命である。「我」の立場からすれば、我の立場を国家や世界に拡大するところに、眞の我があり、これを国家や世界の立場からすれば、一切を個々の「我」に集約、燃焼せしめることに、国家や世界の意義がある。・・・一つの比喩として、一本の立木を考える。立木には、根・幹・枝・葉・花・・・がある。それぞれは、立木全体に流れる生命に支えられ、自己開拓する。一方、それぞれ独自の生命を発揮して全体を擁護し発展させる。・・・ |
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吾々は、運命開拓の単位が「個々の我」であることを思い、堅く改善の信を持して、ともども勇ましく進みましょう。・・・ |
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わが唐中諸子よ、天と、諸子の心には、「光がみなぎり、地と諸子との五体には「力」があふれ、創造の一路は諸子と祖国と世界とその他、坦として無限のかなた「望」の門につづいているのを、諸子はあきらかに認めるであろう。 |
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最後に、私の拙い歌詞のために作曲をしてくださった高田重男氏に、深い感謝を捧げます。 |
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以上、作詞者 下村虎六郎の新校歌の作意を読み原稿用紙、数枚にまとめ、ほっと肩の荷をおろす。 |
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唐津中学、在学中、卒業後の今日まで“光、力、望の男の子”と何気なく合唱し、つぶやいてきたが、その奥には「個人と国家と人類との一如的前進」(註1)という雄大な概念が潜んでいることに気がつき、感動させられる。 |
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また、湖人自身が「唐中時代のあの歌は、実は小生として今日でも内容的に見て不適当でないと思っている。又、私としてあれ以上のものが作れるとは思っていない」(註1)と述べておられる程の自信作なのである。 |
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「宇宙のみ生命、大日輪の うしほにきほいて昇るを見つつ ・・・」、今からは、その意義を深く噛みしめながら、歌い続けていこうと、心を新たにする。 |
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註1 |
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鶴城創立90周年誌 唐津東高等学校 P31~32 |
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資料1 下村湖人(唐中6代校長)と新校歌制定 |
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唐津中学は、第50回卒業生(昭和24年3月卒)で終了し、(新制)の唐津第一高等学校となる。この変革の時期にあたり、「宇宙のみ生命」の校歌を新しい校歌と制定すべく、故蓮尾晃教諭が下村湖人に新校歌を依頼された。これに対する御返事の書簡の一部を引用させて頂いた。 |
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現在の唐津東高等学校・唐津東中学校 |
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参考文献 |
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「『次郎物語』と父下村湖人」 明石晴代 著 勁草出版サービスセンター |
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鶴城 創立90周年誌 唐津東高等学校 |
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鶴城 創立100周年誌 唐津東高等学校 |
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「次郎の里」 下村湖人生家保存会 発行 |
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