私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 春は曙、やうやう白くなりゆく・・・と春の陽光を楽しみたいところですが、今はその自然の脅威におののき、罹災された皆様に心からお見舞い申し上げつつ、筆をとります。
 このコラムの第20回(2005年2月)で、小学読本の“稲むらの火”をとりあげた日を思い出しながら、4月号は先月号からの流れに沿い、私ども宮島「醤油」の育ての親というべき「福井実太郎氏」の一生をたどってみました。
 
宮島醤油の育ての親「福井実太郎」
明治28年に撮影された宮島家近親者写真
後列右端が福井実太郎氏(16歳)。
前列左端が七世宮島傳兵衞、後列右から2番目が宮島徳太郎。
 前月のコラムで、宮島醤油の技術は、福井実太郎氏に築いて頂いたと紹介した。その後、その福井実太郎氏のお孫さん、福井実弥さんから、御自宅に実太郎さんが丁寧に保管されていた貴重な資料を見せて頂いた。
 その資料により、実太郎氏の業績を基にして、宮島醤油の発展の足どりをたどってみる。
(一)生い立ち
 七世宮島傳兵衞は、慶応2年、19歳のとき、唐津の新町三浦屋の福井ギンと結婚する。ギンの妹、福井トミは、福井家に栗山弥三郎(船大工)を迎え、結婚。明治12年に実太郎が誕生する。しかし、トミは残念ながら病をえて死去。残された実太郎は、7歳のときから、七世傳兵衞のもとで養われ、長ずるに従い、宮島商店で働く。
(二)修行時代
 七世傳兵衞は実太郎の将来に期待し、西宮辰馬本家商店(現白鹿酒造)への“修行”を命じている。
 その貴重な「證明証書」が残されている。(下記に掲載)
 「兵庫県武庫郡西宮町東蔵北部酒造場に於イテ明治31年以降明治34年至ルマデノ殆ド四ヶ年間・・・・・・清酒醸造ハ全クソノ技術を了シタルモノト證明スル」
 
 明治31年、実太郎氏は19歳のときから約4年、酒造の勉強に専念している。
 その上、驚くべきことには、この技術修行の期間に「大阪簿記学校」に通い、「本校指定」の「会社科」と「商用科」をそれぞれ席位1番と3番、得点数80点と73点で卒業している。
会社科卒業証書 商用科卒業証書
 
 清酒の製造技術のみならず、簿記、経理関係まで学んだのは、七世傳兵衞の指示なのか、本人の希望なのか・・・、いずれにしろ、その人材育成の炯眼と本人の意欲には驚嘆させられる。
 
 別の資料として、先月のコラムに紹介した唐津西海新聞の記事は、実太郎氏の履歴を次のように伝える。
 「明治28年に酒造法研究のため、博多、大山典四郎方へ、2年間。明治30年9月より、西ノ宮、辰馬吉上門方へ。明治31年4月帰唐。その翌日、明治31年4月から1年間、銚子町の深井吉兵衛方へ出張。明治32年に帰唐。醤油部主任に就任。」
 以上、ふたつの資料に、年月に若干の重複があるが、いずれにしろ、傳兵衞の期待に報いるべく、実太郎氏が清酒、醤油の製造技術、経営、経理関係の習得に懸命な努力を重ねたことを、うかがうことができる。
 
 宮島の醤油部門は、明治15年に創業、清酒は明治30年に舞鶴酒造から引き継いでおり、実太郎が数年間で習得した知識と体験は宮島「醤油」の業績の向上に大きく寄与したことであろう。とくに醤油に関してみると、当時の銚子の醤油業者ヒゲタ、ヤマサ等は、元禄時代に従来の溜醤油から脱皮し、小麦を加えた新しい技術を開発し、江戸文化の趣向に適する品質の改良により、急速に発展する。明治維新後になっても順調に発達していた。
 その現場を1年間じっくり勉強したことは、帰唐後、ローカルの域を出なかった九州醤油業界の激しい競争の中で大いに役に立ったことだろう。
(三)宮島商店「醤油部主任」としての活躍
 実太郎氏は数年に及ぶ修行を終え、帰唐後は当然、醤油部門を任せられたことだろう。
 実太郎氏が大切に保存されていた資料の中に「醤油部主任ヲ命ス」の辞令がある。
 七世傳兵衞は、弱冠17歳で富田屋の家業を継ぎ、志を立て石炭の関西、東京への販売を手がけて成功したかにみえたが、自己所有の大型和船大麻丸を失い挫折。その後、松浦川の石炭川下しの業に転換し成功、明治15年には醤油醸造業をはじめて以来、順調に業績を伸ばした。明治37、38年の日露戦争後の好況にのったのだろう。明治43年に「合資会社宮島商店」を資本金10万円にて設立し、個人商店から法人化する。当時の10万円は物価指数からみて約1億円に相当するだろうか。
 実太郎氏の「醤油部主任ヲ命ス」の辞令には、この合資会社設立の“意気込み”が脈打っているようである。
 当時(明治39年)の唐津の町には法人としての株式会社は金融機関を除くと3社、資本金10,000円以上の合資会社は9社。商工業を営んでいた会社は数少ない時代である。(唐津市史より)

 事業は順調だった。合資会社設立からわずか7年後の大正6年には、「株式会社宮島商店」、資本金50万円として発展する。
 この間の宮島商店の組織はどういう形だったのだろうか。
株式会社宮島商店定款
 幸いに、未完だが、「明治37年11月30日 宮島明治郎起草『宮島家々憲(案)』」が残っている。
 「同族ハ祖先ノ遺訓ヲ奉ジ協力一致、其家業ヲ隆盛ナラシメ・・・」とその結束を強調する一方、家業、業務遂行のための組織を次のように企画されている。
 
一.同族会のもとに、内部と各営業部がある。
(一) 内部の事務は総領(同族会の会長)が総理する。
各営業部に関する事務を管轄する。
(二) 営業部は次の四種とする。
1.石炭部
2.醤油部
3.雑貨部
4.倉庫部
各部に主任を置く。
 
 その主任には広範囲の権限、例えば、部の支配人の任免等をはじめとする人事や営業上の大幅な権限、資金繰り等を一任されているが、年度毎に配当せよ等の規定がある。
 熟読すると、現代風に言えば、まさに“事業部制”である。
 したがって、福実太郎氏は実質的には、醤油部門の、製造、営業、経理を統括する最高責任者なのである。この辞令から察するに、若い福井実太郎氏は「人生意気に感じ」、さぞかし発奮、職務に精励したことだろうか。
 おかげで、明治後半から大正にかけての宮島商店は大いに業績を伸ばすことになる。
合資会社宮島商店(明治48年設立)時代の従業員集合写真
ハッピには「合資会社宮島商店」とある。
落ち着いた雰囲気の中にも発展の意欲が感じられる。
最後列の右端が福井実太郎氏
(四)福井実太郎氏の給与、賞与
 実太郎氏は、明治43年(合資会社設立、醤油部主任就任の年)から昭和7年まで、自らの月俸(月給)、賞与(従業員、役員賞与)の通知書を保存されている。非礼をかえりみず、そのまま掲載させて頂く。
大正6年の賞与通知書
 
年号 月俸 賞与 備考
明治43.6.30 37円50銭 合資会社設立
(宮島徳太郎代表社員)
44.1.1 26円50銭 37円50銭
44.10.1 39円75銭
45.4.1 27円50銭 39円75銭
大正1.10.1 41円25銭
20円(特別賞与)
2.4.1 28円50銭
6.12. 35円
35円(特別賞与)
7.6.1 750円 合資会社解散、株式会社へ
(宮島徳太郎社長)
7.12.22 100円(大正7年上期)
8.4.30 60円+手当3円 100円(大正7年下期)
8.10.1 60円+手当20円
他に米1俵
8.12. 30円、御歳暮
150円(上半期)
「貴殿預リ金勘定ニ振込置候」
9.4. 75円+手当98円75銭
他に米4斗
9.8.23 150円(大正8年下期)
30円中元
「大正9年は財界変調」
9.12.25 150円(大正9年上期)
10.12.28 75円(大正10年上期)
70円(決算賞与)
11.9.1 75円(大正10年下期)
70円(決算賞与)
大正11.12 75円(大正11年上期)
70円(特別賞与)
12.8. 90円(大正11年下期)
50円(決算賞与)
12.12. 95円(大正11年上期)
50円、他に現金
13.8. 95円(大正12年下期)
50円
14.8. 95円(大正13年下期)
50円
14.12. 95円(大正14年上期)
50円
15.5.27 100円
家族補助5円
従来ノ飯米補助ハ原価ヲ申受ケル
昭和3年、徳太郎社長死去、宮島傳兵衞(旧名 甲子郎)社長へ
昭和4.12.25 105円(昭和4年上半期賞与)
5.12.5 110円(昭和5年上半期賞与)
6.12.26 110円(昭和6年上半期賞与)
7.12.25 113円(歳末賞与として)
 
 明治末期から昭和初めまでの20数年間、当時の給与としての水準を現在と比べるのは社会生活の変化、給与に関する考え方等、考慮した場合、あまり意味はないかもしれない。 しかも、地域間、企業側、企業内の格差、現物給与等々まで立ち入れば、なおさらである。
 あえて参考までに、「物価の文化事典」によれば、「明治30年代の、いわゆるホワイトカラーの平均給与月額は20円程度、公立小学校教員の初任給は10~13円程」度という。
 その後は第一次世界大戦後のインフレで上昇し、昭和の恐慌、そして第二次世界大戦に入る。
 大きな経済の流れからみると、賃金、給与は明治の日清、日露戦争以降、大正3~7年の第一次世界大戦が終わるまでは順調に推移し、大戦終了後のインフレで大幅にアップする。
 この通知書をたどってみて、合資会社から株式会社への改組にあたっての特別な賞与、大正7~8年の好況時でのアップもさることながら、大正8年12月の御歳暮、賞与では支払いにあたって、「貴殿預リ金勘定ニ振込置候、随時御引出相成度候」と添書きしてある。現在は当たり前となった“銀行振込”を90年前に実施しているのには驚く。 現金では渡さず、貯蓄しておけよ、という親心だろうか。さらに、米1俵と日常生活への配慮もある。現物給与か?
 この給与推移からすると、宮島商店の堅実な歩みが目に見えるようである。
 
 福井実太郎さんの孫、実弥さんは、このような資料を前にして、
 「今、私が住んでいる家は祖父が建てたのですが、建てるとき祖父は、『私の貯金はこんだけですが・・・』と七世傳兵衞に渡したところ、こんな立派な家が建っていました、と聞いています。 祖父、実太郎は幼い時から育ててくれた傳兵衞の恩に報いるべく、そして絶大の信頼を寄せ、宮島家の為ならと、忠実に真摯に勤めたようです」
 と語っておられます。
 株式会社宮島商店の勤務は約40年。
 昭和9年8月17日没 享年55歳。
                           合掌
 
 このコラムを書き終え、実太郎氏の夫人、コトヲおばさんに可愛がってもらった幼い日々の思い出が、しみじみとなつかしくよみがえってきました。明るい、おもしろいおばさんのお顔が・・・。また、コトヲおばさんと大の仲よしだった私たちの大叔母、お栄さんとのコンビぶりも。
参考文献
「醤油読本」 深井吉兵衛 著 有明書房 昭和31年