私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 平成23年3月11日(土)、東日本大震災、起こる。
 マグニチュード9の巨大な自然の力は、大地震となり、大津波を誘い、原子力発電の根拠を襲う。
 日本国民すべてが、この自然の脅威におののいた。震災後、ひと月を過ぎた今。少し平静になる。ふと、平安末期の鴨長明の名随筆“方丈記”の地震の恐怖を描いた一節を思い出す。
 
東日本大震災に際し、 「方丈記」に想う
一.方丈記に想う
(一)序
   ゆく川の流れは絶えずして
   しかも もとの水にあらず
   淀みに浮かぶうたかたは
   かつ消え かつ結びて
   久しくとどまりたる例(ためし)なし
   世の中にある人と栖(すみか)と又かくの如し
 
 この方丈記、冒頭の一節は、平家物語の「祇園精舎の鐘の声・・・」とともに、口ずさまれ、私たちの心の中に潜む無常感をさそってきた。
 著者鴨長明は、個々の人々が味わう無常感というより、人の住居、都会の集団はいかに立派であっても、あえなく消滅する、という無常感から独自の住居論を導き出す。
(二)世の不思議
 長明は、「ものの心を知ってから40年余りの春秋を送った間に、“世の不思議”を見る事、たびたびになりぬ。」と自らの五回の体験を語る。
 (「世」とは現実のこと、「不思議」とは、人間の知恵が及びもつかぬこと、すなわち、天変地異のこと)
(イ)大火
 安元3年(1177年)4月28日、午後8時頃、京都の南東部から西北の方に広がっていく。
(和歌に長じる長明は、漢文訓読調、すなわち適当に漢語を交えながらの雄渾な文体で自ら見据えた現実を見事に表現している。)
 
 原文の一部を引用する。
 吹き迷ふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして一二町を越えつつ移り行く。その中の人・・・。あるひは煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔にまぐれて(目がくらんで)たちまちに死ぬ。
 と説明した後、「人間のすることは、馬鹿げている。中でも、それ程の危険な都の中に家を造ろうと、お金を使い、心を悩ますことは、とりわけ、つまらないことである」 と批判する。
(ロ)辻風
 治承4年(1180年)4月29日、京都に辻風(つむじ風)が起こる。
 安政の大火からわずか3年、京都京極から六条まで3、4町を吹きまくり、大小の家を問わず損壊する。人々は、これを“地獄の業”の風もこれ程はあるまいと噂した。
 辻風についても、長明は、「辻風はいつも吹くが、こんなことはない。これはただ事ではない。何かが起こる神のお告げかもしれない」と疑っている。
(ハ)都遷り
 治承4年6月頃、にわかに、平清盛の発案、独断と専行により、福原(現在の神戸)に都を遷すという。世間の人々は、この遷都を不満に思い憂慮していた。
 しかし、とやかく言ってもそのかいなく、安徳天皇はじめ大臣、公卿も一人残らず福原へ移る。朝廷につとめ、官位を望む人は、誰も旧都に残らず、新都の福原へ赴く。したがって、京都の住居は日に日に淋しくなっていく・・・。
 
 長明は天変地異でもない遷都をどうして「不思議」に含めたのだろうか。おそらく当時の人々にとっては、まさに青天の霹靂だったのだろう。
 かくして、住居とはあっけなく消えるものだと、暗示しているのだろう。
 昔の聖天子は、仁徳をもって、年貢を免除、人民に恵を施した。今の世はどんなだろう、と平家の執政を筆を抑えながら非難している。
(ニ)飢饉と疫病
 世にいう養和の飢饉である。
 治承4年(1180年)、辻風が吹き荒れた翌月の5月以降、大干ばつが襲う。福原遷都の翌月の7月に頂点に達し、翌5年、養和と改元するが、飢饉餓死する人の数知れず。翌養和2年(1182年)は、さらに疫病も流行。さらに、盗賊横行、死者巷に満つる惨憺たる地獄絵巻を長明の筆は簡潔にリアルに描く。
 「心憂きわざ」として、薪さえ不足し、仏像を盗み、これをこわして燃料とする濁悪の末世をみる。
 「いとあわれなること」として、相思相愛の夫婦の間では、愛情の深いものが先に死ぬ。親子なれば親が先に死ぬ。窮乏の極限にあって、路上に伏す母の冷たい乳房を子が吸う“あわれ”を長明は書き記す。
 リアルな表現だけに読むものにとっては衝撃的である。
(ホ)地震
 「世の不思議」の第5は、元暦2年(1185年)7月9日の大地震である。(今を去ること826年)。
 また、(飢饉と)同じ頃、ひどい大地震(おほなゐ)が揺れた。
 ・・・・・・山はくずれ、河を埋め、海は傾きて陸地をひたす。土はさけて、水わき出て、巌(いわを)割れて谷にころげこむ。船は波にただよう。
 都の近辺では、神社、寺、塔など、完全なものはない。・・・塵、灰、立ちのぼり、盛んな煙のようだ。地の動き、家がやぶれる音、雷のようである。家の内におれば、押しつぶされ、外に出れば、地が割ける。羽がないので飛ぶことができない。龍ならば雲にも乗れただろうに。
 恐るべきなかの恐るべきは、ただ地震であると感じる。
(中略)
 猛烈な地面の揺れは、しばらく熄(や)んでいたが、余震(なごり)はしばらく絶えなかった。普通に驚くくらいの地震が1日に20~30回、10日~20日を過ぎると、やっと間遠くなり、4、5回から2、3回、または1日おき、2、3日に1回、だいたい余震は3ヶ月ぐらいだったでしょうか。
 宇宙を構成する四大要素のなかで水・火・風からは常に災害を受けるが、大地は特別な異変は起こさない、とされているのに、昔、奈良東大寺の大仏の首が落ちたとのことだが、その地震も今度の地震のひどさには及ばないだろう。
 地震のあった当時は、人は皆、この世はつまらぬものだと語り合って、人の欲望、煩悩が薄らいだかに見えていたが、月日がたち、何年かがすぎるとその後は誰ひとり口に出す人さえない。
 「世の不思議」、地震の一節の結びは、3ヶ月に及ぶ大地震にもかかわらず、「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」、人間の“はかなさ”、愚かさに長明の嘆きが聞こえそうである。
 
 以上、世の不思議、天変地異として安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の地震の実態を忠実に、ときには非情と思えるほどリアリスティックに描写することによって、自分たちが当然、安心安全に生活している“都の住居”も、こんな天変地異によって、あっけなく、消えてしまう。その無常さを強調し、長明独特の住居論へと発展する。その当時の政治社会をたどってみる。
(三)当時の政治社会
 この大火から地震までの9年間は、平安末期から鎌倉初期、奇しくも我が国の一大乱世時代と重なる。
 
年号 西暦 天変地異 政治、社会 年齢
安元3年 1177年 安元の大火 23歳
治承4年 1180年 辻風
源頼政挙兵
大干ばつ
福原遷都
源頼朝挙兵
源義仲挙兵
福原より京都へ遷都
治承5年 1181年 諸国に反乱続出
平清盛死す
餓死者京都に満つ
養和1年 改元
天下餓死多く、強盗横行
養和2年 1182年 京都飢饉、疫病のため死者巷に満つ
元暦2年 1185年 大地震 31歳
 
 このように、長明がとりあげた「世の不思議」と当時の政治状況とを並べてみると、平安時代から鎌倉時代へ、王朝文化から武家の世界へとうつる、日本の社会的な大変革の時期にこれらの天変地異がよくも重なりあったものと、その偶然に驚くとともに、当時の朝廷に仕える公卿から、庶民の一人ひとりまでが、末法思想におびえ、天災にまどい、途方に暮れていた時期だった。
 これらの天災、人災にあたって、それを統括する政府も無力だったろうから、いかにして立ち直ったことだろうか。
二.東日本大震災に想う
(一)自然の脅威に対処して
 マグニチュード9、震度7、想定外の地震、大津波の脅威に被災者の皆さんはもとより、全国民は、ニュースが流れる度ごとに、その脅威におののいている。
 自然は、海の幸山の幸と恵んでくれるものの、ひと度狂えば、それから人智には及びもつかぬ力となって襲う。想定していたラインなどは、つたない人間が勝手につくったもの、文字通り、非情、無常なものである。
 今回の地震・津波は宮城県~福島県沿岸を襲った「貞観の大津波」、清和天皇、貞観11年、西暦869年、今を去ること1142年以来の大災害といわれている。
 方丈記の元暦の大地震が1185年、マグニチュード7.4と推定されているのだから、まさに1000年単位の大地震と考えれば、自然現象としては当然ありうると解釈するのは、あまりにも冷めた解釈なのだろうか。
 大自然が引き起こす大災害をどう予測するか、そしてどう対処すべきか、自然は何も教えてくれまい。
 私たちは自然を完全に克服することはできまい。
 そうなれば、いかにして被害を最小限にとどめるには、どんな対策を立てればよいのか、よく考えなさいよ、との天の啓示かもしれない。1000年単位の大災害を予想するか100年の計を立てるのか・・・も含めて。
(二)大災害にあたっての社会秩序
 今回の大震災に際して、被災者の皆さん方の物心両面にわたる衝撃は、いかばかりかと察するにあまりある。しかし、マスコミが報ずる皆さん方の落ち着いた冷静な行動、お互いを助け合う気持ち、支援する人たちの善意など、世界各国から賞賛の声が聞こえてくる。
 
 大災害時の人心の動向を考えてみると、貞観11年(869年)は、時代としては藤原良房が摂政となった時期であり、陸奥の地震、津波の損失がどれだけ社会不安を醸し出したかは、分かりにくい。
 ただ、その後方丈記が伝える「元暦」の地震は、平安時代の末期、先に述べたような社会的不安も手伝い、強盗窃盗その他、相当に乱れていたことだろう。
 関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分発生、今を去ること88年、今や体験された方も少なくなっている。
 震源地は東京から80km離れた相模湾北西部、マグニチュード7.9、最大震度6。最も被害が大きかったのは小田原、鎌倉、横浜から東京。建物は崩壊し、お昼の食事中、各地で火の手があがる。おりから秒速10メートルを超える強風にあおられ、大火災となる。
 東京を中心として交通、通信はすべて不通。数時間後に、横浜港内の汽船からの発信で各地に報道されたという。
 時に、震災の1週間前に加藤友三郎が亡くなり、山本権兵衛が組閣の真っ最中だった。
 当時は、第1次世界大戦後の好況から、日本の社会も大正7年(1918年)の米騒動以後、急進的な社会主義運動、労働運動が起こり、社会不安が感じとられた頃であった。
 災害発生後2日、どこからともなく「富士山が大爆発した」とか「朝鮮人が来襲して放火した」とかいう流言蜚語が広がっていく。ついに、内閣は緊急勅令の「戒厳令」を施行。事態を収めるが、このころから日本をめぐる国際情勢も変化しはじめ、大正デモクラシー、昭和恐慌、ファッショ化へと歩むことになる。
 こう考えると、関東大震災はその後の日本を象徴しているのだろうか。
 
(三)東日本大震災の復興へ
 おそらく、日本国民にとっては、この度の東日本大震災は、有史以来、最も大きな天災だろう。
 地震発生後、1ヶ月有余、漸く大震災の復興計画を策定するための諮問機関である「復興構想会議」第2回が去る4月23日に開催され、本格的に具体的な議論が交わされている。
 なにしろ、物心両面、経済的には、国の一年間の予算に匹敵する何十兆円という財源が必要なこと、復興にあっては、生活の安心、安全性への対策、生活基盤である将来の農業、水産業をどう構築していくか、原子力発電の災害対策とともに長期的には我が国のエネルギー対策は・・・・・・等々。さらに、精神的には、日本国民一人ひとりが東日本大震災にあわれた方々への支援の心を忘れず、国民の総意として、“ガンバレ日本”でまとまっていくこと。
 大震災はまさに国難、天の試練として受け止め、総力を挙げて復興に励まねばならない。
 おそらく、将来は第2次世界大戦の戦前・戦後と称するように、東日本大震災以前と以後と価値観、経済観を画然と使い分けるような屈折点になるであろう。
 10数年後には、「もはや大震災後ではない」と宣言し、全世界から賞賛の拍手をもらいたいものである。
 
追記
 この拙稿を書き終えた日、4月27日の読売新聞の文化歴史「古今をちこち」の欄に日本史家、磯田道史氏が「大津波千年一度は甘い」と題して、「中世以降の史料の乏しい時代の史料痕跡がないからということと、起こっていないこととは違う。今回のような大津波は1000年に一度ではなく、400年に一度は来ていた可能性がある」と指摘されている。
 私の足らざるところは、読売新聞を参考されますようお願いいたします。
参考文献
「日本の歴史4 平安京」 北山茂夫 著 中央公論社
「日本の歴史23 大正デモクラシー」 今井清一 著 中央公論社
「日本の古典に親しむ 徒然草・方丈記」 
          島尾敏雄・堀田善衛 世界文化社 
「日本古典文学鑑賞第18巻 方丈記・徒然草」 
          冨倉徳次郎、貴志正造 編角川書店