私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。ありがとうございます。
 今年もまた、長い暑い夏になりそうです。夏が来るたびに、8月15日が思い出されます。
 昭和20年、大村の第21海軍航空廠で学徒動員中に迎えた敗戦という歴史的な体験は、60有余年の歳月を経ても決して風化していない。
 
昭和20年の夏
(一)昭和20年8月の日記から
 暑い夏が来る。
 毎年のことながら、終戦の年、昭和20年夏、唐津中学4年生だった少年時代を追想する。
 大東亜戦争は既に末期。敗色濃厚にもかかわらず、大村の第21海軍航空廠に学徒動員。「戦争には必ず勝つ」と信じ込まされていた少年たちは、命じられるままに、航空機の生産に汗を流していた。
 大切に保存してきた当時の日誌を取り出し読み返す。
 
 七月五日(木)晴
 機銃掃射を受ける。夜勤だったので昼は休んでいると、いきなり高射砲の音。宿舎を出て防空壕に向かって走る。ひとまず数機が上空を通過。壕の入口でぼんやりしていると、山の端から超低空で1、2、3、4機・・・石ころでも落とすように弾丸が飛び出て自分たちを狙っているような錯覚にとらわれる。シュー、シューという音とともに・・・。大型機6機編隊、相当我々に近い―壕に入る。・・・やっと静まる。外に出た。太陽の光がうすい。真っ黒な煙、ある宿舎はめらめらと真っ赤・・・。(日誌を読み、この原稿を書きながら今なお、かすかな恐怖感が走る。)
 
 6月に沖縄が陥落している。
 8月に入り、ソ連参戦、広島原爆投下・・・そして長崎へも。
 
 八月九日(木)晴  (機械工場にて就業中)
 パッとヒューズが飛んだかと思った。我が目を射った後、三十秒いや一分後かも、耳をつんざく爆風・・・。
 (長崎から大村まで直線距離で37kmくらい、工場内で軽く平手で耳を叩かれたようなショックを受けた。)
 原爆投下以降、工場内は、広島と同じ型の“新型爆弾”の噂がしきり。正式の指示としては「爆風と燃焼液が威力がある、裸で仕事をするな、万力台(仕事の台)の下に隠れろ」という。
 
 原子力爆弾の知識は全くゼロなのだからどうしようもない。ただ、疎開していた工場から、大村市内の宿舎に帰る途中、焼け爛れた顔、腕を抱えた人に出会った。おそらく、被爆後、長崎から歩いてこられたのだろう。今なお記憶に深く刻まれている。
 以来、長崎原爆投下後は敵機が一機でも侵入してくれば、すぐに空襲警報となり防空壕へ入れ・・・との命令だった。
 
 八月十五日(水)雨後晴  (停戦の詔書下る。)
 朝から曇った空を眺めていたら雨となり、とうとう夕立気味になる。トタン屋根を叩く。
 ・・・本部前で集会。主任より「停戦の詔書」下る、詳細不明とのこと。始め、何だか解らなかった。種々説あり。
 
 八月十六日(水)雨後晴
 曇った空は、我々の気持ちを曇らせる。工場へ運ぶ足は重い。谷貝大尉(機械工場長)より訓話。強く胸に響く。
 機械を拭く腕も、油布、機械も元気なし。一木一草、建屋もしょんぼり立っている。・・・我々は、各々生きる道を選んで最善を尽くしつつ進まねばならぬ。
 宿舎にていろいろ説明あり。唐津中学の生徒たることを忘れず、行動を律すべし。
 
 これで、私の動員日誌は切れる。
 記憶をたどると宿舎に帰った後直ちに、平田先生の「戦争には負けた。すぐ帰省する。直ちに荷物をまとめよ」との指示に従い、国鉄大村線竹松駅から乗車、唐津に向かった。
(二)当時、何を考えていただろうか。
 昭和20年8月15日から66年後の現在。当時15歳の中学4年生。しかも、戦時中の学校教育。とくに昭和16年から4年間は、もっぱら鬼畜米英、大日本帝国の不滅を確信し、「滅私奉公」、「欲しがりません、勝つまでは」と忍耐を強要され、大本営発表の情報のみを真実と思い込まされていた。
 それが突如して、昭和20年8月15日「終戦の詔書」である。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ・・・・・・帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」
とポツダム宣言受諾を聞かされても、その意味を解することもできない。ただ呆然とするのみであった。戦争に負けたのだと理解するのに一日はかかった。勿論、戦争に負けることが日本人一人ひとりの生活にどういう変化をもたらすのか、日本という国がどんな形になるのかなど、全く想像することもできなかった。
 
 勿論、不安はいっぱいではあったが、ただ担任の先生の指示に従い、大村の海軍第21航空廠の宿舎を後にして、当時の国鉄で全員帰宅する。
 8月15日から2週間後、9月1日から第2学期がはじまる。
 久しぶりに母校の唐津中学の門をくぐる。
 同じ工場で働いていた友人は勿論のこと、他の工場で働いていた友人、さらに陸海軍に入学していた友人たちも復学してくる。さらに時がたつにつれて、旧満州(中国東北部)、朝鮮半島、中国から帰国し、転入してきた友人も加わる。
 数十日前まで空襲警報におののき、新型爆弾の恐怖におびえていた頃のことは、日を追うにつれて遠のいていった。授業は社会、歴史等は政府の方針が決まらず休講が多く、国語、漢文は制約され、数学、物理、化学と英語のみで午前中で終わる。学園生活は明るさを増していった。若かったのだろうか、思ったより平静に学業に専念することができた。
(三)15年戦争とともに
 今、冷静に戦争にまつわっていた少年時代を振り返ってみる。
 
満州事変
 昭和5年生まれである。その翌年の昭和6年9月18日、満鉄線の「柳条溝」爆破事件を口実に、関東軍は軍事行動を起こす。このことは満州事変と称し、後の日支事変、ひいては太平洋戦争へと連なっていく。
 そして、戦後になって、この満州事変から昭和20年までを、第二次世界大戦と称したり、15年戦争と呼んだり、太平洋戦争と呼んだりしている。
 満州事変の頃までは、当時生まれたばかり。勿論すべて記憶にはない。
 
支那事変
 昭和11年2月26日の2・26事件、引き続いて昭和12年7月7日に盧溝橋で日中両軍は衝突する。北支事変と命名、後、「支那事変」と改称する。
 昭和12年、私は小学2年生、「支那事変がはじまったよ」と聞くようになるが、まだまだ切迫感もなかった。
 支那“事変”は、まだ戦争ではない、宣戦布告をしていないのだからと聞かされていた。ところが、小学校5年生、昭和15年になって、担任のO先生が突如、中国に出征され、急に“戦争”を身近に感じることになる。たしか1年足らずで帰国され、学校生徒の前で戦争の体験を話された。中支方面の○○湾の上陸作戦に参加された話だった。
 この頃から、唐津駅や東唐津駅に行き、“武運長久”と日の丸の旗をふりながら、出征される兵隊さんを送りに行くことが多くなってくる。
 
大東亜戦争
 その翌年、小学校6年生のとき、昭和16年12月8日午前6時、開戦の大本営発表となる。
 「帝国陸海軍ハ本8日未明、西太平洋ニオイテ、米英ト戦闘状態ニ入レリ」
 当日は晴天だった。朝登校すると、、すでに数人の友人たちが、たむろし、興奮して「日本は戦争を始めたバイ、必ず勝つサイ」と大きな声で話をしている。
 その朝の朝礼は寒かった。校長先生から訓示があったが、その内容は何も覚えていない。
 
 翌昭和17年に佐賀県立唐津中学校に入学、開戦当初は真珠湾攻撃の余勢を駆って連戦連勝するが、彼我の戦力の差はいかんともし難く、徐々に戦局は悪化する。
 中学1、2年までは春、秋の農作業の応援程度だったが、中学3年の夏から、海軍の土木工事(佐世保鴛之浦、現在の鹿前)に従事した後、翌昭和20年2月20日から大村の第21海軍航空廠にて勤労学徒として機械工場にて汗を流す。
 そこにまさに青天の霹靂、終戦の詔勅が放送されたのである。
 今振り返ってみると私たちは昭和5年に生を享け、昭和20年までまさに15年戦争の中で育ったことになる。
 
 今、齢八十路に入り、時に昭和史を繙くとき、幼児から少年期の記憶が重なってくる。日本国中が徐々に右傾化し、ファッショ化し、抜き差しならぬ雰囲気になっていく過程は、子供心であっても無意識のうちに体感していたようである。
 
 眼を日本国全体に向けるとき、昭和6年の満州事変以来、15年の長い戦争状態が終結した。この間、いろいろの曲折を経て、このような結果になったが、日本国民としての歴史はじまって以来、最初にして最後の惨めな敗戦であり、老若男女いかなる立場にあり、環境にあった人であっても、全員がこの運命的な事実を体験したのである。
 それ以来66年。戦後の苦難の連続から高度経済成長を謳歌するもバブル崩壊、さらに今年、平成23年は、1000年に一度ともいわれる大地震、津波、―原発に連なる大事故と試練の秋を迎える。
 昭和20年から、復興の過程に、日本国民はこの歴史的体験を生かしていたかどうか、さらにこの度の東日本大震災には、的確に対処できているかどうか、全国民の思潮はどう導かれるのか。ここ数年は日本国民にとって、ひとつの正念場であろう。
参考文献
「『終戦日記』を読む」 野坂昭如 NHK人間講座
「日本の歴史26 よみがえる日本」 蝋山政道 著 中央公論社