私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 宮島醤油株式会社は、明治15年、醤油醸造を創めて、今年は130年を迎えることができました。
 6月2日、唐津にて、9日に宇都宮において、従業員一同、一堂に会して、記念式典、懇親の時を過ごし、“宮島”を今日にまで、つくりあげて頂いた先輩、関係者の方々に感謝しつつ、さらに140年、150年・・・200年に向かっての決意を新たにいたしました。
 
宮島醤油 創業130周年を迎えて
「去華就実」考
(一)社是「去華就実」
為 宮島大人 小笠原長生 書
 宮島醤油本社を訪問されるお客さんを応接室にお通しする。
 「こんな古い部屋に入ると落ち着きますね。いつ頃の建物ですか」
 「宮島醤油、発祥の地は数百メートル東の水主町ですが、ここ船宮へは大正9年頃移転しています」とお答えする。
 さらに、宮島醤油が「去華就実」を社是としていることを御存知の方には、この応接室に掲げている額を紹介すると、「これが『去華就実』ですか」とあらためてご覧になる。
 私は昭和40年に貝島炭鉱を退職。宮島醤油に入社以来、40数年来、この額を仰ぎ、自らを律する座右の銘として、また、宮島の歴史にふさわしい、当社の社是として尊重してきた。
 
(二)日露戦争と戊申詔書
 さて、その出典は、と長らく気にかけていた。
 たまたま、日本の歴史(中央公論社、日本の歴史22、大日本帝国の試練)を読み進み、日露戦争から戦後の社会情勢、さらに戊申詔書の一節に及んだ。
 明治41年、ときの首相 桂太郎は、
 ・・・日本は身に余る大戦争を終え、経済的には疲弊、資本主義の発達により、「貧富の懸隔をして益々甚からしめ、従って社会の間に乖離反動を促し、ややもすれば安寧を危害せんとする。(足尾銅山、別子銅山、幌内炭鉱などの争議等)・・・故に、教育により国民の道義を養うべく、明治天皇のお力を借りて戊申詔書を煥発した。」
 その中に次のような一節がある。
 「上、下、心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ・・・『華ヲ去リテ実ニ就キ』、荒怠相誡メ自彊(自ら努力する)息マサルベシ」
 と国民に奮起を促す。
 恐らく、「去華就実」が一部の人たちに膾炙されたのは、この頃からではなかろうか。
 
(三)去華就実と甲子園
 戊申詔書から歳月は流れること百年余、平成18年夏の甲子園、早稲田実業と苫小牧高校の優勝戦。斎藤佑樹と田中将大の両投手の息づまる熱戦は早稲田に凱歌があがる。
 早稲田の校歌が甲子園の大鉄傘に響き、全国に流れる。
     都のいぬゐ(西)早稲田なる
        ・・・・・・
     実る稲穂の帽章に
     “去華就実”のこの校風を
    高くぞ持するわが健児
 斎藤投手は早稲田大学を終え、プロ野球へ。日本ハムで活躍中。色紙にサインを頼まれたら、“去華就実”と書いてくれるだろうか。
 
 宮島醤油は、明治15年に創業、奇しくも、早稲田大学の前身、東京専門学校も同じく明治15年に開校している。2年前に、唐津に早稲田佐賀中学校、高等学校が開校したのも何かの“縁”と感じられる。
 
(四)去華就実にかかわること
 去華就実の心を、心として持ち続けていると、思いもよらぬところで、去華就実に出会う。
 NHK出身の高知県知事、橋本大二郎さんの著書「県知事」によれば、色紙を頼まれると、「去華就実」と筆を揮うとのこと。なぜなら、彼の出身校麻生中学の創始者、江原素六先生の記念碑の一句にひかれたからと述べられている。
 
 また、「就実」を冠とした「就実中学校・就実高等学校」が岡山県にある。戊申詔書の去華就実をうけ「華美に流れず実際に役立つ人間になってほしい」との願いをこめて、明治44年に創立されている。たしか、バレーボールの強い高校だったと記憶しているが・・・。
 
(五)去華就実の定義、出典
 去華就実、あまり日常では使わないので、辞書では見かけないが、岩波の「四字熟語辞典」には「外見の虚飾より、内面の実質をえらびとること、花を捨てて実をとる意」と解釈してある。ただし、出典の根拠は記載されていない。
 さて、その語源はと、時にふれて、いわゆる四書五経等の中国の古典からは見出しえないと思っていたところ、数年前、宮島醤油のホームページをご覧になった人から
 「去華就実は菽園雑記(選者 陸容、民の時代の人)第10巻にある」
 と教えて頂いた。
 残念ながら、その原典の内容までは勉強ができていない。
 
(七)小笠原長生の生い立ち
 ここまで、書き終えて、応接室の「去華就実」を仰ぎみる。
 小笠原長生は小笠原長行(老中)を父とし、唐津藩最後の藩主小笠原長国の後嗣者。明治維新後は数奇な運命をたどるが、明治17年に子爵を授かり、海軍兵学校、大学を経て、日清戦争の黄海海戦、日露戦争の日本海海戦では軍令部勤務。その後、文筆に長じていた小笠原長生は日清・日露戦争の歴史の編纂にたずさわった後、東郷平八郎に師事。学習院長の乃木大将の信任もうけ、学習院の御用掛、当時の皇太子(昭和天皇)の養育にあたる。
 明治の中頃、小笠原長生、来唐の際、宮島本宅に滞在されたが、そのときの揮毫ではないかと推測している。
小笠原長生
 唐津には小笠原長生の書は数多いが、“為宮島大人”の去華就実は雄渾にして滋味溢れている。長生、最も脂の乗り切った時期の筆ではなかろうか。
 
(八)宮島醤油、130周年を迎えて
 宮島醤油は明治15年、宮島傳兵衞が創業、爾来、5世代、6代目の現社長に至るまで、従業員ともども、数々の試練に耐え、今日を築いてきている。
 この間に、宮島という名のもとに育まれたものは、どんな雰囲気だっただろうか、宮島の歴史を辿り、先輩諸氏から感じるのは勤勉、誠実、堅実等々の徳性から生まれる雰囲気があり、“去華就実”の四文字に凝集されている。
 
 20世紀の近代経済学をリードしたマックス・ウェーバーは、その名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に「勤労と節約等々の個々の様々な徳性をひとつの統一した行動システムにまでまとめあげているようなエートス、倫理的あるいは思想的雰囲気、そうしたエートスこそが資本主義の精神」であり資本主義を発展させた源泉であることを実証的に説明する。
(大塚久雄 訳書 解説より)
 
 エートスとは「人間の持続的な性格の面の意、ひいてはある民族や社会的集団にゆきわたっている道徳、慣習、雰囲気(広辞苑」)をいう。
 中小企業のわれわれが、こんなエートスまで引きあいに出すのは烏滸(おこ)がましいが、130年の歴史を温(たず)ねながら、宮島醤油の将来を考えると、去華就実を社是とし、変動の多い社会経済を見究めつつ、技術立社に励み、地域社会への貢献に努め、先人たちが育んでくれた、宮島の「エートス」をより研ぎ澄まし、素晴らしい企業になればと念願している。