私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 長く激しかった梅雨も明けました。
 暑い8月を迎えます。
 私ども宮島醤油は、明治15年、醤油醸造業を創めて以来、今年で130周年を迎えました。
 この間、栄枯盛衰の歳月を重ねてきました。
 古きを温(たず)ね新しきを知る、とともに、一方ではスクラップアンドビルドも必要です。
 宮島醤油、戸畑支店(現 北九州営業所)は、設立以来100余年を経過していました。従来のみそ、しょうゆの流通はメーカーから大卸、小卸、小売店だったのが、現在は大型スーパーが主流となったため、ユーザーの皆様への配送と営業活動を分離し、配送関係を倉庫・運送会社に委託、営業は別個に独立し、拡売に専念できるようにするようにいたしました。
 今回は現在の北九州営業所の歴史を振り返ってみることにいたします。
 
北九州営業所、100年
(一)戸畑支店の全景 写真2点 (100年の歳月)
大正6年(1917年) 戸畑支店
 
平成24年(2012)7月 北九州営業所の建物の一部
 この2葉の写真の間には、95年(約百年)の歳月が流れている。
 記録によれば、戸畑支店は大正3年5月1日に設立されている。明治から大正初期にかけて、宮島商店は七世傳兵衞の獅子奮迅の活躍のもと、石炭の販売を中心として、発展しつつも、堅実な醤油、味噌醸造業も着実に伸長していく。
 すでに、明治42年に伊万里、ついで明治43年に長崎支店を設立していた。この両支店はいずれも火薬と醤油類の販売を目的としているが、戸畑支店はもっぱら醤油類の販売のみを目的としている。
 明治の初期、中期までは宮島の家業は石炭その他を中心としていたが、唐津線の完成に伴い、松浦川を利用した石炭の輸送が厳しくなり、徐々にスタンスを醤油へと移すことになる。その頃に戸畑支店が設立されたものと解釈しつつ、この2葉の写真を見比べてみる。
1.大正6年の写真は、煙突にも黒煙が上がり、新興の意気に燃えている雰囲気、前方の船着場には(キッコーミヤ)の帆船が停泊中で、当時の活況が偲ばれる。
2.この船着場は後年、埋められ、北九州営業所事務所が建っている。
3.現在の建物は、いろいろの面から調べると、かなり改築はされているものの大正6年撮影の建屋と同一であると思われる。
 宮島醤油、北九州の本拠地。広島、宇部への進出の起点となる。
平成24年(2012)7月 北九州営業所事務所
船着場があった場所
 
(二)戸畑支店の特色
 戸畑支店の特色は、醤油の生産工場を併設していたことである。
 昭和25年に「戸畑工場」、との記録がある。
 それまでは、諸味を4斗樽に詰め、唐津(船宮の工場か西唐津の港)から戸畑へ移送し、熟成後、圧搾、製成・・・樽詰の工程を経て、出荷していたと伝えられている。昭和25年から原料処理、製麹をはじめ、いわゆる一貫生産している。
 
 生産、直ちに販売と直結することで、漬物、佃煮、オカキ等の調味料、いわゆる業務用醤油への拡売に努め、販路を拡大していく。例えば、鹿児島の漬物のN商店、広島の佃煮のN商店、その紹介で高菜漬けのN商店等・・・。
 一般の消費者向けとしては、三井鉱山、八幡製鉄、門司鉄道局の配給所にも取引を拡大し、昭和33年には宇部出張所(後に営業所)、広島営業所を開設した。戸畑支店は当社の東部の営業所を統括する位置にあり、巨漢の笹部桂作支店長の風貌が思い出される。
 一方、戸畑工場の方は、寺田敦夫氏が工場長として陣頭指揮をとっておられた。
 
(三)戸畑工場を語る“集い”
 去る7月19日、この戸畑工場で働いてもらっていた従業員、5名の方に集まって頂いて、このコラムの冒頭に掲げた写真、また持ち寄ってこられたスナップを見ながら、約50年前の若かりし時代を語りあってもらった。
右から原口卓夫さん、小田部勉さん、私(会長)、
青木義紀さん、宮崎勝さん、岡崎広嗣さん
 
●「大正6年の写真と、現在の建屋は、同一ですね、100年経過ですか」
●当時の工場内の配置、見取り図(寺田友之氏提供)をみながら・・・

「圧搾、製成、樽詰等は覚えているが・・・製麹がどうだったのかは覚えていない」

 数日後、当日、欠席だった寺田友之氏に電話で尋ねると、昭和27~28年頃にはNK缶(N.K式蛋白質原料処理方法)はすでに設置してあったとのこと。
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●「5尺桶は本社から分離して送ってきていた。それを組み立てて使っていた」
 後に樽・桶の製造にたずさわった青木義紀さんは「戸畑でその技術を熊本さんに教えてもらった。おかげで、本社工場に転勤後も包装部門に勤務させてもらった。今なお大石神社から依頼があり、制作していますよ」と元気いっぱい。
5尺桶の上で記念撮影
(本社から解体して移送され、
戸畑で制作していた。)
●最年長の原口卓夫さんが担当していた製成は、岡崎広嗣さんが引き継いだ。
●宮崎勝さんは15年間(昭和25年~38年)圧搾、樽詰(包装)に従事。
●小田部勉さんは昭和25年“仕込み”を担当。出麹(でこうじ)で糀まみれ、まっ白になった思い出。4斗樽数丁を内村運輸にのせて八幡製鉄購買部へ配達。ご婦人方は行列して待っておられる。再度、仕込みから製成へ異動。鹿児島N商店の淡口しょうゆの澄まし桶のやりくりに苦心したこと、27年頃からびん詰も始まり、自動瓶詰機、打栓機が新設工場に設置された等々・・・。肩をこわし、ボイラーの技能を習得。
4斗樽の前で記念撮影
●ボイラー掃除・・・真っ黒になって・・・
●よく働いたなあ・・・よくお酒も飲んだが・・・
●今考えると、ヒヤリ、ハット!・・・
初荷の様子
 
 かくして、話はアッチに飛び、コッチに走ること約2時間。彼らの汗と涙と御苦労の程を笑顔で語って頂く。
 皆さん、益々、壮健、再会を約して―。
 
(四)昭和38年、戸畑工場の本社統合とその後
 醤油業界は、昭和25年、戦中戦後の統制の枠が除かれ、自由競争の時代に入り、厳しい時代を迎えることになる。このため、昭和38年3月、戸畑工場は本社工場に吸収されることになる。
 当時(昭和37年)の宮島醤油の事業概況(昭和37年の決算書より)
1.従業員数
2.生産数量・金額
 以上の資料から当時の会社の概況を推定して頂きたい。
 
 以上、戸畑工場を本社へ吸収後、戸畑工場の工場長 寺田敦夫氏は本社製造部製造第2課長となり、醤油、味噌の業務用部門の技術面の研究と、営業部との協力により拡張を担当して頂いた。
 この業務用部門への進出は、その後、粉末、液体の調味料、焼き肉のたれ、加工食品へと発展していることを考えると、そのルーツは戸畑工場が温床だったと言っても過言でではない。
 戸畑工場、北九州営業所の歴史をたどって、先人たちの努力に感謝しつつ、この稿を終える。