私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 私たちはほとんど毎日、本を読んだり、新聞をみたり、いわゆる「活字」の字に接する。
 何気なく読んでいると、ときどき、“オヤ”と字の形や読み方等に疑問が生まれる。そのまま読み過ごしてもよいのだが、妙に気にかかるときがある。
 その気にかかったものの中から思いつくままに・・・
 
漢字雑想
(一)こけら落し
 こけら落し、という言葉に、初めて接する人は、ほとんどの方が、何だろうと疑問をもたれるだろう。
 そして、「○○劇場、こけら落とし、○○○主演・・・」といった看板を見て、ハハー、新築○○劇場の初興業だなあ、と理解する。
 その次に、「こけら」とは何だろうとの疑問をもつ。辞書には、「こけら」とは「木材を削るときに出る細い木、また木を細長く削り取った板」とある。なるほど、鉋屑(かんなくず)のことかと納得する。劇場の完成に最後の一葉のカンナクズまで綺麗に掃除した清々しさを、劇場の繁盛を祈って「こけら落し」というネーミングには感心する。
 ところが、いつだったか、こけら落しを、「柿落し」と書いてあった。柿(かき)の皮を剥くとカンナ屑のようになるから柿を「こけら」と読むのだろうか、とぼんやりと理解したことがあった。
 その後、角川漢和中辞典をひいていると「柿」の項が目に止まった。、
(かき)と(こけら)は別字、は同字とある。
 さっそくをひいてみると、「(ハイ)が音を表す。
 字義は(1)こっぱ、木片 (2)へぎ、こけら、薄くそいだ板 (3)木札」とある。
 
 
 これで、多年にわたる、わが疑問、氷解!
 
(二)敬遠
 秋たけなわ、スポーツシーズン、日本プロ野球のハイライト、日本シリーズが10月27日からはじまった。
 野球ではよくあるケースに、得点差1点、一死走者2、3塁、バッターは4番の強打者。
 ピッチャー第1球投げました!
 ボール、ボール、やっぱり敬遠か。とたんに、力が抜ける。
 
 野球用語はBase Ballを野球に訳したり、邪飛、盗塁・・・等々、うまく日本語に訳したなあと感心する。しかし、この敬遠だけはひと味違った違和感がある。
 敬遠の出所は、「論語の一節」である。
 
 「樊遅(はんち)、知を問う。
 子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし」
 「知とは人民に対しては人としてなすべき義務を果たすように教え、祖先や神々に対しては、十分に敬意をささげて、遠く離れた所にお祭りしておく。これが知というものだ」と。
 
 直訳すれば、平凡、今では祖先や神社、仏閣等を政治に持ち込まないのは当然のことではある。しかし、今を去ること、2,500年前の中国の政治からみれば、「鬼神を敬遠する」の意味はまことに重大なのである。
 中国古代の都市国家(夏、殷、周)は、日本、ギリシヤと同じように祭政一致(祭神と政治は同一)であった。孔子の時代になり、民を統治する政治に重点をおき、神を祭る祭祀の方は尊敬はするが、(神は政治をせず)丁寧にお祭りする。すなわち、宗教と政治を分化するのだと、はっきり意識するようになっていく。
 従って、この敬遠の意識はまさにイデオロギーの転換を意味するものであった。
 
 さて、現在にもどる。野球における敬遠は英語(米国)では、
 「The pitcher gave the batter an intentionalwalk.」という。
 Intention(al)とは、「意識的(に)、故意(に)」の意味。
 故意に、意識的に四球を与える、という軽い意味だろう。どなたの翻訳かは勿論不明だろうが、野球用語を畏れ多くも(?)論語から引用したのだろうか。
 一般的にも最近は「○○さんは敬遠した方がよい」など、かなり広く引用されているような気がする。このときは、「You had better stay away from him.」。さて、どちらを先に使い出したのだろう。
 2500年前の孔子は、これを聞いて、どんな顔をするだろう。微苦笑くらいかな?
 
(三)醤油の“醤”という字
 私ども宮島醤油は、明治15年、醤油醸造業を創めて、今年で130周年を迎えた。生まれて物心ついた頃から、宮島醤油に囲まれていた。
 なのに、“醤”が何を表しているのか、勉強不足だが、最近になって漸く解明した。
 つぶさにという字を分析してみる。
 
 である。
 は大将・将軍の将。その将をさらに分析すると、は足のある机のこと、(月【にくづき】が?に変化した)は肉、は刀で肉を切り込む形。
 以上をまとめると、机の上に切った(豚)肉をおいて、神前に犠(いけにえ)として供え、大将が必勝を祈り、戦争に向かう。軍を率いる人が、すなはち大将である。(字通より)
 
 酉は、お酒を醸造、熟成させる壷(つぼ)のこと。
 醤は、爿(しょう)の音を借り、この醤の字ができていた時代には、醤という調味料が存在していたのだろう。
 論語の、第十郷党篇には、
 「孔子は飯は精米されているほど、膾(なます)は細く刻んだものを好まれた・・・食物の色、臭いが悪いもの・・・、季節はずれの物は食べない。・・・『醤』(だし)なしには食べない」と記されている。
 
 従って、孔子の時代、今から約2000年前には、すでに「醤」という調味料があり、文字もあったことになる。
 原始時代の人々は、塩を見つけ、自然から採集する動植物に塩を加え、保存を考えだし、さらに発酵で調味料である醤をつくりあげていく。
 魚醤、肉醤(ししびしお:今の塩辛)、草醤(くさひしお:今の漬物)、穀醤(みそ、しょうゆ等)と広がっていく。
 日本では、万葉集その他に「比之保(ひしお)」と称していたが、これに中国の醤の字をあてたのだろう。
 「醤」という字が歴史上に表れるのは、奈良時代文武天皇の大宝元年(701)に発布された「大宝律令」の中に醤院(ひしおつかさ)という役所が設置されている。どんな仕事をしていたかはよく分らないが、その後、平安、鎌倉、室町・・・と時代が進むとともに醤油は日本の食を潤わせて2000年余、その価値は、ほとんどの人が認めながらも、ここ十年余、減少し続けている。私たち醤油メーカーとしては、伝統を守り、そのおいしさを再認識して頂くべき努力をせねばと思いつつ、筆を擱きます。
参考文献
「世界の名著 第3巻 孔子・孟子」 中央公論社
「醤油読本」 深井吉兵衛 著 有明書房