私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 来月の6月1日は宮島醤油の創立記念日である。今年で実に131回を重ねることになり、毎年、祝賀の式典の前には、会社の幹部の方々とともに、お墓に掌をあわせ、お参りする。
 
創業記念日に因んで ~お墓参り、お稲荷さん~
 
(一)お墓参り
 「宮島家累代之墓」は虹の松原のロイヤルホテルから東へ、松籟に耳を傾け、老松の間を縫いながら歩くこと数分、松原の墓地の一番奥にある。
 幼い頃から親しんだお墓は、十数段の石段をのぼった高台の上にある。堂々たる墓石を仰ぐ。
 創立記念日には傳兵衞相談役が線香の煙の中、礼拝し、引き続き、一族、従業員の代表の方にお参り頂く。
 こうして宮島醤油の縁のもと相集い、生業の場を与えていただいたことに感謝し、掌をあわせ、宮島の発展を期する。
 あらためて、「宮島家累代之墓」を仰ぐ。
 幼い頃の思い出では、お墓をとりまく松は、子どもの身長と変わらないくらいだったが、今や老松となり、お墓を包むように繁っている。母親がこの「宮島家累代之墓」は日将という日蓮宗の有名な和尚さんが書かれたんだよ、と言っていた。その後、唐津市の先覚者列伝の中に、その人の名が連ねられていることに気がついた。
【本化(ほんげ)日将】 宗教家 
明治元年(1868)―昭和7年(1932)、66歳。
 江戸の旧唐津藩邸に生まれたが、幕府の瓦解で父母とともに唐津に帰ってきた。幼にして両親に死別し、十人町法蓮寺にあずけられて成人するうち、日蓮宗の僧となる。宗祖日蓮の理想顕現のため、東奔西走、護国の教化の大遊説を試み、朝鮮、満州にも渡って布教に奮闘し、日蓮宗門の偉材として名声、後世に伝わる。(吉倉前誡)
 現在の法蓮寺の御住職にお尋ねしたところ、四代前の御住職とのこと。宮島家、中興の祖、七世宮島傳兵衞の名にふさわしい雄渾な筆跡である。
 JR筑肥線が電化されるまでは、このお墓参りにくると、お墓の裏の線路をゴーゴーと音を立てて蒸気機関車、ディーゼルカーが走っていたが、今は東唐津駅が鏡の方に移転したので墓地はひっそりしている。
 もうひと昔のことが想い浮かぶ。
 現在の宮島家の墓を含む松原の墓地は、筑肥線の旧東唐津駅(現在のロイヤルホテル)の場所にあった。大正中期に唐津~博多間に鉄道を敷設しようとの世論が高まり、東唐津駅を満島(東唐津)寄りに設置するため、墓地を急遽移転することになった。大正13年2月移転許可、移転期間4ヶ月という突貫工事であった。
 母の話では、あれだけ大きく重かったからだろうか、宮島のお墓が最後になってしまったよ、とのこと。さらに安養寺の御住職からは「移転した後も宮島さんのお墓は本宅から見えていましたよ」と聞いている。
 ひと月くらい前の日経新聞の夕刊「人間発見」に今をときめく伊藤忠商事の社長、岡藤正広氏の卓話が引用されていた。
 「年をとると、議論するのもおっくうになりやすい・・・夏になると、創業時の伊藤忠兵衛さん(近江商人)の京都のお墓をお参りします。汗ダラダラになってしまうけれど、手をあわせるたびに、創業時代の空気が僕を引きしめてくれるんですよ」と。
 今年もまた、創業記念日を迎える。
(二)お稲荷さん
 お稲荷さんは、五穀豊穣、開運出世を司る神様として親しまれている。宮島醤油では「新年」、「初午祭」、「創立記念日」と年3回は会社の行事としてお詣りする。とくに初午(はつうま)さん2月初めの残寒厳しい午の日に、本社工場の南、妙見工場、宮島本宅の3ヶ所の祠(ほこら)で、従業員の有志の方々から奉納して頂いたのぼり旗が立ち並んでいる中、神主さんの祝詞献上のあと、一同、2礼、2拍手、1礼、今までの御加護を感謝し、今後の商売繁盛を祈願する。
本社工場のお稲荷さん 妙見工場のお稲荷さん
 宮島醤油のお稲荷さんは「正一位 冨田稲荷大明神」と称している。
 「冨田(とんだ)」は、宮島家が徳川の中頃、唐津の水主町にて料理屋兼魚類商を営み、住み着いた時の屋号「冨田屋」に因んだものだろう。
 今を遡ること、200年余りだろうか。
 七世宮島傳兵衞(現傳兵衞曾祖父)の祖父(現清一社長から数えると6代前)は、新町の近藤家から養子として入籍、清左衛門六世傳兵衞と称していた。
 彼は料理店ではもの足りず、唐津炭田の石炭採掘に乗り出すが、失敗する。その失敗をもじった、次のような俗謡が流布したという。
冨田(とんだ)屋が飛んだ所に炭坑(ヤマ)をして
 味噌なし 米なし 醤油なし
 正月親方 盆頭領
 仕繰(シクリ)繁昌 炭が傳兵衞
※仕繰(シクリ)とは、坑道修理の意味
 今となっては「冨田屋」の由来を知る術もないが、明治になってからはキッコーミヤ、亀甲宮、が定着していくので、“冨田屋”という名が残っているものは、この「冨田稲荷大明神」だけである。
 残念ながら、この冨田稲荷大明神が創建されたのがいつ頃か、全く不明であるが、かなり古くからであろうと推測している。
 
 御承知のように、日本全国に散在している、稲荷神社の総本宮は「伏見稲荷大社」である。この稲荷大社は「山城国(京都)風土記逸文」の伊奈利の条に稲を象徴する神であると記されて、農耕的色彩が強かった。しかし、その後この稲荷神社を創建した帰化人、秦一族が養蚕、機織、その他幅広い商工業を営んでいたため、稲荷信仰は拡大し、真言宗その他の仏教との習合をくりかえしながら、民間信仰として江戸時代にはさらに進展し、現在は近代化した大企業のコンクリートビルの中にも祭祀してある程普及している。
 
 冨田稲荷もおそらく、この伏見稲荷に礼を尽くして勤請(霊を招き遷すこと)して、冨田稲荷と称することになったのだろう。
 爾来、どれだけの歳月が経過しているか全く不明である。今となっては永い間、宮島を守って頂いている。“お稲荷さんのおかげで・・・”と感謝し、宮島家のルーツを辿りつつ、“今からもお願いします”と想いを馳せている。